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平成の虚無僧一路の日記

武田勝頼滅亡後の保科氏 

2016年02月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



保科正直は信州高遠の国人で武田に臣従していた。信長の武田攻めで
高遠を追われ、弟の正俊(武田重臣の内藤家に養子となっていた)を頼って、
群馬に逃れる。まもなく武田勝頼が滅びると、小田原北条氏の後ろ盾で
高遠を奪還する。
しかし、その後、信州は家康が支配するところとなり、家康に臣従したため、
北条方に人質として置いてきた妻(跡部氏の女)は殺されたという。
長男の「正光」は、武田勝頼の下に人質として置かれていたが、井深氏
(ソニーの井深大氏の祖)によって救出され、高遠に戻った。
 
そして、保科正直と正光父子は家康を頼って三河安城に来ていたのである。
家康は、妻(跡部氏娘)を殺された保科正直を哀れんで、異父同母の妹
「多劫姫(たけひめ)」と 再婚させたのであった。ここで、保科氏と家康は
義兄弟となるのである。
そして、太閤秀吉の小田原北条攻めには、保科正直・正光父子は家康に従って
関東に赴く。正直としては妻を、正光にとっては母を殺された恨みもあったろう。
だが、小田原北条氏の当主「氏直」の室は家康の娘「督姫」である。
氏直は家康の嘆願により死を減ぜられ高野山に幽閉される。
小田原は無血開城したが、関東一円の城は北条方であり、忍城(現 埼玉県
行田市)などは、最後まで抵抗して戦った。映画「のぼうの城」で有名
 

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