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平成の虚無僧一路の日記

武田家滅亡、その時 

2016年02月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」
ご存知『武田節』の一節。 信玄公は「忠義の家臣の結束が
あれば城など要らん」と城は造らなかった。お館(やかた)
ああそれなのに、勝頼は新府城を造り、その賦役が国人衆、
民百姓を苦しめ、離反につながった。
武田家の滅亡で、甲斐、信州、関東は大混乱に陥り、
信長につくか家康につくか、はたまた小田原北条につくかで
運命が分かれた。
織田信長の陣に降った者は「主家を裏切るような者は信用ならん」と
殺された。この信長の峻烈極まりない処断が、わずか3ヶ月後の
本能寺の変となる。「信長の下では、いずれ自分も切り捨てられる」と
感じたのは、明智光秀だけではなかった。一方、徳川家康は、後に秀吉が小田原北条を滅ぼした後、関東に
移封された時も、7万もの武田や北条家の遺臣をうまく懐柔して、
関東の支配を固めることができたのだ。
秀吉としては、「家康を関東に放り込めば、虎=武田・北条の遺臣の
餌食になって自然消滅するだろう」と目論だのだが、おっとどっこい
そうは問屋がおろさなかった。家康が諸将、国人衆に宛てた手紙は1万7千通にもなるという。
一人一人の個別事情を把握し、人心をとらえていたのだ。
その記憶力と筆マメな努力こそ 天下取りに至った才なのだ。

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