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土地の古老の話 

2016年02月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

高齢大学に、3歳ほど先輩の男性が居られます。

記憶力が確かな方で、いろんな催しで昔の話をなさっています。
書くこともお好きで上手なので、書き溜めたものを、我がオカリナの先生に頼んで、パソコンに、打ち込んでもらっています。
お願いしてそのデータを私にも頂けることになりました。長い自分史のようですが、とりあえず頂いた農家の暮らしの部分は、次のようなものです。

注釈付けないと分からないこともあるので、お会いして聞きたいです。許可がいただけたら、ネット上で皆様に読んでいただきたいと思っています。


農家の年末(昭和十年代)
正月は一ケ月遅れの二月、従って一月は農閑期だが家の大掃除や一年間使う燃料作り、縄や莚あみなどで忙しかった。
農具の買い替えに、吹上げの観音様や大宮の十日まちに自転車で行った。
他に大変なのは、くず掃き(落葉掃き)があった。
落葉も掃く前に下草刈り(バヤ刈り)をした。
刈った草は、木の根本の北側に置いた。
冬は北風が吹くので飛ばされない様に木を支えに置いた。
掃き寄せた落葉はハチホン籠に詰めた。
木のある処に籠を持って行き、その木につかまり乍ら足で踏んで周りから詰めた。
横にしても崩れ出ないように固く詰めた。籠を横にして転がして道まで出した。
リヤカーや牛車で家まで運んだ。
ツクテッパに積んだり苗床(サツマ床)に入れて水を撒き湿らせて足で踏んで腐らせた。種藷を伏せる時は、去年の堆肥を厚く入れ藷を並べその上に籾殻を被せた。苗床の温度は平均十八度位だった。



節分(豆まきと云った)昭和十年代)

この辺りでは「節分」と言わず「豆まき」と云った。
夕方になると父が垣根の柊の小枝を何本かとって、目刺しの頭を小枝の先に差し、囲炉裏の火で炒り乍ら、家中の悪い病気にすべて「虫」を付けて唱えては唾をかけ、炒る動作を何回も繰り返していた。
その枝を家の各出入口に差していた。魔除だそうだ。
夜になると父が大神宮様に灯明、酒、ご飯と一緒に「ホーロク」で炒った大豆を一升舛に入れて供えお詣りしていた。
終ると舛を持って、家の各出入口で戸を開け、「福は内、鬼は外」と声を張り上げて撒いた。声が大きい程鬼が驚くからという。
撒き終ると急いで戸を閉めた。鬼が戻って来るからという。
どこの家よりも早く撒く、遅くなると他の家の鬼共が来るからと云う。
子供達は年の数だけ食べた。「今年一つ年をとった」と皆云う。
その頃は満年齢は使わず節分で年を数える習慣だった。



あの頃のお正月(昭和十年代)

この辺りの子供の頃の正月は、男が年男と云って三ケ日は、父が皆より早く起きて、神棚に半紙を敷いて鏡餅を上げ、灯明、酒、やはりこの辺りの昔からの雑煮の具、大根、里芋の汁に餅を入れて作り供えた。
元日の食事は年末に歳暮で頂いた塩鮭、大根と人参の生酢、牛蒡と人参の金平、里芋の煮ころがし、糸昆布や車麩の煮物など、男は燗酒、女、子供は甘酒を飲み大人は一日中のんびりしていた。

男の子は外で凧上げ、女の子は羽根つきをした。
雪の日は炬燵でカルタとりしてあそんだ。
食後父が神社にお詣りに行った。
正月中は大人も子供も和服だった。
当時田舎の、特に農村の生活は質素だった。

やがて戦争が始り、すべて統制がしかれ、配給制度となり食料事情は厳しくなった。あれから半世紀以上経った。今の時代は・・・幸せすぎて当時を経験した身は何故か一抹の不安がある。

願くば永遠の平和を・・・・・子孫の為に・・・・・そして国家、同胞、世界の人類の幸せのために。

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