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平成の虚無僧一路の日記

フィリピン 最後の帰還兵「小野田少尉」 

2016年01月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「小野田少尉」といえば誰でも知っている。「帝国最後の軍人」。
だが、2014年の1月16日に亡くなられていたことは知らなかった。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=MgotWJeAlLA
 
 
小野田 寛郎(おのだ ひろお)氏が発見され、帰国したのが昭和49年(1961)。
その時の報道写真、テレビ放送を鮮明に覚えている。「さすが帝国軍人」と
身震いしたものである。敬礼の仕方ひとつ、役者の演技ではないホンモノを
見た思いだった。
その裏で、「あれはすべて演出だった」という声もチラホラ聞こえてはいた。
小野田さん自身も、「ビラや短波放送で終戦は知っていたが、フィリピンの
警察官、民間人を30名も殺害しているので、死刑は免れない。それが怖くて
出ていけなかった」と語っている。犯罪者として処刑されないために、「終戦は
知らなかった」ということにし、「上官の命令は絶対」と言わせてせて、上官からの
任務解除の命令書まで作成しての救出劇だったのだ。
そのことに、私は批判するものではない。それが最善の策だったのだ。
昭和30年ころ、私が小学生の頃、ラジオ番組で フィリピンの話を聞いた。
「フィリピンでの日本兵の戦死者は50万人だが、その倍の100万人以上の
フィリピン人が殺された。日本人への恨みはものすごく、日本人ということが
バレると、石を投げられ、殺されかねない」との話だった。
事実、戦後、小野田さんの二人の同僚が強盗殺人者として警察官により
射殺されている。小野田さんにとっては究極のサライバルだった。
今回、天皇陛下のフィリピン訪問。ご無事であったことに感無量。
 
追記。父の手記に、「北支(中国北部)にいた時、同僚の将校が何人か
フィリピンに転属となった。極寒の地から暖かい南国への転属だから
いいなと思ったが、全員戦死した。運命の分かれ目だった」と。

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