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雑感日記

川崎重工業120周年 

2016年01月23日 外部ブログ記事
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 ★ 「かわさき」が送られてきた。
今年は、創立120周年だそうである。
120年の長い歴史の中で、昭和32年(1957)から平成11年(1999)まで約40年間 お世話になったのである。
二輪事業のスタートの時期から、企業として経験のない分野を当時担当した人たちはみな、苦労しながら乗り切って今がある。二輪事業の損失で本体の川崎重工を無配に追い込んだ危機的状況の時代もあったのである。
 
   
 
 私が入社したのは川崎航空機で、戦前エンジン工場であった明石工場は1952年の再開以来エンジン関連の歯車や、アメリカ空軍のジェットエンジン工場はあったのだが、二輪車に関してはまだエンジンを明発に提供はしていたが2輪の一貫生産はまだやっていなかったのである。
当時の川崎航空機には、エンジンの専門家はいたが、二輪車の解る専門家はいなかったし、メーカー体質で、マーケットの販売のことなど経験者は一人もいなかった時代なのである。
 
    
 
 この図は、時系列に事業展開を追っかけているのだが、メグロと業務提携し二輪車の一貫生産を目指して『単車準備室』が出来たのが1960年12月、実際に工場が動いてB7の生産を開始したのは1961年のことだと思う。
この二輪事業の開始時期の記入がないのは残念である。
私が当時のできたばかりの単車営業部に配属されたのは1961年12月のことだった。62年、63年は単車事業はよちよち歩きで、この事業を進めるべきかどうかの調査を日本能率協会に依頼し『単車やるべし』との結論を得て、単車事業部となり岩城常務が本部長で総力を挙げて動き出したのは1964年1月のことである。
この年の10月10日が東京オリンピックの開会式で、当日は伊豆丸の山高原でのMCFAJ 全日本モトクロスに4種目中3種目に優勝して、カワサキのレース界での明確な位置づけができたのである。
国内だけでなくアメリカ市場への進出を企図して調査に入ったのがこのあたりからで、表記されているように1968年には販売会社KMCの設立がなされている。今年はその50周年にあたるようである。
66年にA1,  69年にH1, 72年にZ1  と中大型スポーツ車を市場に投入しカワサキのイメージを確固たるものとした。
73年には、Jet Sky をKMCがアメリカ市場で販売を開始している。
当時日本でもJSが売られたりはしているがこれは商社がアメリカから輸入したものでカワサキ本体が扱ったものではないのだが、そのJSが人身事故を起こし国会で取り上げられ、正式な商品としての名称がなく『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりしたのである。ジェットスキーはカワサキの商品名なのである。
 
 
         
 
そんな時代を経て、74年には、ガスタービンが登場しているが、この事業を担当していたのはZ1を開発した大槻幸雄さんで、単車とジェットという2部門の部門を兼務したりしていた。
アメリカでは『リンカーン工場』がこの年スタートしているが、アメリカに工場を造ったのは多分間違いなくカワサキが初めてである。ホンダの工場進出もこの数年あとだし、4輪などもっとあとの工場進出なのである。
ひょっとしたら、日本の本格的な工場進出の第1号は、リンカーン工場かも知れない。この時期アメリカ市場を担当しKMCを設立、リンカーン工場進出の旗を振ったのは、2014年11月に日本自動車殿堂入りをされた浜脇洋二さんである。日本自動車殿堂には二輪からは本田宗一郎さんや鈴木修さんなどが入られている。
浜脇さんは、その後、BMW JAPAN の社長として、日本でのBMW販売網を創り上げたりしたのである。
大槻さんも浜脇さんも当時の職位は新任部長のころだったことを思うと、その動きは誠にダイナミックだったのである。
 
その後、1984年NInja 900 が世に出た時代は、大庭浩本部長(後川崎重工社長)が再建屋として単車事業部に赴任されていた時期で、私はその番頭役をやっていた、カワサキ二輪事業の危機と言われた時期である。その規模は川重本体を無配に追い込むようなものだったのである。
それを無事乗り切って、いまの二輪事業があると言ってもいいい。
それ以降は多少の波はあったのだろうが、二輪事業も川崎重工も順調に推移していると言っていいのだろう。
1995年には阪神・淡路大震災があったりしたが、川崎重工業の現役メンバーには一人の死者もでることなかったのは、奇跡に近いような気がする。
その翌年、1996年が100周年で大庭社長時代だったが、英国のサッチャー首相が記念講演をされたりしたのである。これは1991年の英仏海峡海底鉄道トンネルに川崎重工が大いに貢献したこともあったのだろう。
 
★その100周年からさらに20年、私も現役引退して20年近くになる。
こうした川崎重工業の想い出話を書けるだけでも幸せだし、この40年間で身に付いたマーケッテングマインドやソフトノウハウ、創り続けた仕組みの経験は、今も尚いろんな分野で活用できることに心から感謝したいのである。
 

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