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平成の虚無僧一路の日記

「諏訪」はなぜ「すわ」と読むの? 

2016年01月22日 外部ブログ記事
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「諏訪(すわ)」の語源が、いまいち不明。
『日本書紀』では「須波」。平安、室町時代に「諏訪」という記述あり。これは当て字だから、なぜ「スワ」なのか。古代の発音では「スファ」ではなかったか。すると、「スファ」とは、
「スファラディ・ユダヤ」の「スファ」ではないかという説が浮上。「スファラディ・ユダヤ」とは、アブラハムの子孫のユダヤ人の意味。旧約聖書で、アブラハムは、子のイサクをモリア山で、神の命に従い、
生贄(イケニエ)にしようとする。諏訪大社上社のご神体は「守谷(もりや)山」。
 
『日本書紀』によると応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝。
「百二十県の民を率いての帰化を希望しているが、新羅の妨害にあって果たせない」
と訴えてきた。そこで、16年8月、軍を新羅へ派遣し、弓月君とその民を日本に
つれてきたとある。応神天皇は実在したとされる大王。その在位は4世紀後半から
5世紀初頭で、高句麗の英雄・広開土王の時代。応神朝に大人数の渡来人の
来朝があった。その数は10万人とも。琵琶湖周辺から関東にまで広く分散し、
農耕、工芸の生産技術を広めた。当然、諏訪の地にも多くとどまったことが、
古墳などから判っている。秦氏はイスラエル人であった。
 
この地には、奇妙な地名がいくつかある。「ジャッコ原」「タカボッチ山」
「ミシャ山」「ガボッチョ」「カシガリ山」など漢字では表記されない地名が多い。古代ヘブライ語で解明できるといい。この地には、4,5世紀ころから、日本人とは違う言葉の人が多く住んでいた。そこで、大和政権が征服し、言語を取り上げた。「言」を「取る」で「諏」という文字が
当てられたと、これは面白い仮説だ。

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