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平成の虚無僧一路の日記

多劫姫とは 

2015年12月01日 外部ブログ記事
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多劫姫(たけひめ、天文22年(1553年) - 元和4年(1618年))は、久松俊勝の娘。                                       
母は於大の方で、松平広忠に嫁ぎ竹千代(後の徳川家康)を生んだが、離縁させられて
久松俊勝に再嫁した。つまり、多劫姫は家康の異父妹となる。
多劫姫は、最初、桜井松平家の松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく忠正が亡くなったため、
忠正の弟の松平忠吉と再婚し、信吉と忠頼の二人の子をもうける。
桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、代々短命で、
忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は家広、その後は忠頼が継ぐが、忠頼も27歳で
旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、この松平忠頼の家臣だったが、
忠頼の落命でお家断絶。一時浪人となっていた。
さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのである。
保科正直は信州高遠の国人で武田に臣従していた。信長の武田攻めで高遠を追われ、
弟の正俊(武田重臣の内藤家に養子となっていた)を頼って、群馬に逃れる。まもなく
武田勝頼が滅びると、小田原北条氏の後ろ盾で高遠を奪還する。
しかし、その後、信州は家康が支配するところとなり、家康に臣従したため、北条方に
人質として置いてきた妻(跡部氏の女)は殺されたという。長男の「正光」は、武田勝頼の
下に人質として置かれていたが、井深氏(ソニーの井深大氏の祖)によって救出され、
高遠に戻った。
さて、武田滅亡後の信州は大混乱に陥り、保科正直と正光父子は家康を頼って
三河安城に来ていたのである。家康は、妻(跡部氏娘)を殺された保科正直を
哀れんで、多劫姫と再婚させたのであった。
そして、太閤秀吉の小田原北条攻めには、保科正直・正光父子は家康に従って
関東に赴く。正直としては妻を、正光にとっては母を殺された恨みもあったろう。
小田原北条の当主「氏直」の室は家康の娘「督姫」である。氏直は家康の嘆願により
死を減ぜられ高野山に幽閉される。小田原は無血開城したが、関東一円の城は
北条方であり、忍城(現埼玉県行田市)などは、最後まで抵抗して戦った。
そのひとつに房総(現千葉県山武市)に山室城があった。私の母方の祖である。
その山室一族は家康配下の「保科正直・正光」父子に攻められて滅ぼされた。
当主以下多くが討ち死にしたが、家康は北条方の残党に対しても寛大であった。
一族の「山室丹後守」は、この時、保科正光に登用される。保科正直・正光は
その後10年間、房総の多古一万石の城主となっていたのである。
そして、1600年の関が原の時、東軍について浜松城を守り、その功で旧領の
高遠に2万5千石で戻るのであった。
 

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