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平成の虚無僧一路の日記
普化宗の日本開祖「覚心」について
2015年11月11日
テーマ:テーマ無し
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024.html
 
開山無本覚心? 〜西方寺建立〜 正嘉2年(1258)無本覚心は由良鷲峰に遷り、功徳主の願性の要請によって、西方寺の開山住持となった。(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正嘉2年戊午条)。願性は俗姓を葛山景倫といい、源実朝に仕えていた御家人。実朝より入宋の命令を受けて九州に行き渡宋の準備をしていたが、承久元年(1221)実朝が暗殺されたこと聞いて剃髪し、高野山に登った。願性は夢告により紀伊国海部由良荘に実朝の頭蓋骨を安置する廟を建立し、田園を寄進して寺院とした。これが西方寺であり、嘉禄3年(1227)10月15日のことであった。
文永元年(1264)8月9日に西方寺の別当願性は寺務を無本覚心に譲り、由良荘を高野山金剛三昧院に寄進した。西方寺は熊野詣の途上に位置しており、後世には無本覚心の名声と相俟って、熊野に詣でる者は鷲峰山(西方寺)に道をとり必ず無本覚心に礼謁すべし、そうでなければ無意味であるとされるほどであった。西方寺は熊野信仰をベースに遁世僧・民間宗教者の参詣する寺院として知られるようになっていった。無本覚心は神託によって、文永3年(1266)母に会いに信濃国にむかい、母に会って、母を由良に連れ帰った。建治2年(1276)願性が示寂した。願性と無本覚心が嘉禎元年(1235)に高野山で出会って以来43年の歳月が流れていた。
無本覚心と曹洞宗・時宗・律宗・萱堂聖無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持っていたが、他宗派とのつながりが非常に多いことでも知られる。しかしそのことは無本覚心の伝記『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や他宗派の伝記にはみえず、後世に記された史料にみえることが多く、無本覚心と他宗派の交流が実際にあったかどうかは、実証を困難にしている。曹洞宗と無本覚心の関係は、瑩山紹瑾(1268〜1325)が興国寺(西方寺)を訪ね、無本覚心に会い、一冬を過したとされる。(『日本洞上聨灯録』巻第2、能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師伝)。しかし多くの瑩山紹瑾諸伝では触れていない。しかし無本覚心の法嗣である孤峰覚明(1287〜1361)が瑩山紹瑾のもとに参禅しており、無本覚心の法脈である法灯派と曹洞宗の関係は続くこととなる。時宗の一遍智真(1239〜89)と無本覚心の邂逅について、それぞれの基本伝記である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や『一遍聖絵』・『一遍上人絵詞伝』にはみえない。一遍の異伝では無本覚心との説話が度々みえる。 建治元年(1275)一遍は熊野に詣でた後、紀州真光寺(西光寺か)に赴き、心地(無本覚心)にまみえた。無本覚心は「念起即覚の語」を示すと、一遍は和歌で、「唱うれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏」と示したが、無本覚心は「未徹在」といった。建治2年(1276)4月、一遍は再度熊野に詣でたが、路傍にたまたま律僧に出会った。(中略)一遍はなおも冥慮を仰がんとを欲して、証誠殿に詣でた。神は「三心のさはぐり有るべからず。凡そのこの心は善き時も悪き時も迷なる故に、出離の要とはならず。ただ南無阿弥陀仏が往生するぞ」といい、「西へゆく道にな入ぞ苦しきにもとの実りのあとを尋よ」という和歌を得た。ここにおいて一遍は解他力深義を領し、自力意楽を捨てた。再び紀州由良に戻って無本覚心にまみえて、和歌を呈した。「捨て果てて身は無きものと思いしに寒きぬれば風ぞ身にしむ。」 ついに印可を受け、手巾・薬篭を得た(『一遍上人行状』)。 弘安10年(1287)3月に一遍は兵庫に至り、結縁しようとする道俗の人々は一遍の周囲に群を形成していた。光明福寺の住持は和歌を呈した。同郡の宝満寺には由良の法灯国師(無本覚心)が在住していた。一遍は参謁しすると、(無本覚心は)念起則覚の話を掲げた。一遍は和歌で心のうちを述べたが、禅師は「未徹在」といって斥けた。一遍はまた和歌を述べると、禅師は手巾と薬篭を一遍に附属して印可とし、「この2物は信を表わしている。後人の標準としなさい」といった。一遍は踊念仏をした(『一遍上人年譜略』弘安10年条)。 この両伝記とも、無本覚心にまみえた年が建治元・2年(1275・1276)と、弘安10年(1287)と大幅に隔たっており、邂逅した場所も、紀州真光寺(西光寺か)と兵庫宝満寺(写真下)と異にしていることから、一遍と無本覚心との関係説話には疑問が持たれるところであるが、これらの説話について禅と念仏を結びつけるために五山禅僧によってつくられた説話とみられている。一遍は法語のなかに無本覚心の得法の機縁の語を引いており、一遍が無本覚心のことを知っていたことは事実であったという(原田1988)。また時宗四条派の祖である浄阿真観(1276〜1341)もまた無本覚心に参禅したという説話がある。
浄阿は諸国を修行していたが、紀伊由良に到って心地(無本覚心)にまみえ、座下にあって禅法に励むこと6年間、端座して修行した。ある時無本覚心にむかって「長年修行しているとはいえ、いまだに一分の鼻孔すら得られません。なおも修行すべきでしょうか。又(何か)示されることはないのでしょうか」といった。無本覚心は「長年の工夫で得られなければ坐禅すべきではない。また法性というものは教外別伝であって、言説をもってのべるべきではない。ただ熊野に参詣して祈請しなさい」といった。そこで浄阿は熊野本宮に参詣して祈請してみたが効果はなかった。翌日に熊野新宮に参詣すると、夜夢に念仏の形木を賜って「この札を賦して衆生に利益しなさい。名は一阿弥陀仏と付けなさい」という神託に預かった。そこで由良に下向して無本覚心にまみえ「熊野に詣でて念仏の法を得ました」といった。無本覚心は「いかなるか念仏」と問いかけ、浄阿は「南無阿弥陀仏」と答えたが、無本覚心は「よしとするには不足である。また参詣しなさい」といった。また浄阿は熊野に参詣して下向した。無本覚心は「いかなるか念仏」と再度問いかけると、「南無阿弥陀仏」と答え、無本覚心は「よし」といった。それより浄阿は念仏を勧進して諸国を修行した(『浄阿上人伝』)。
この説話について、浄阿を祖とする四条派が、対立する遊行派の七条道場に対する正当性を主張するため、浄阿の師の一遍と同じ宗教的体験をした説話が形成されたとされる(原田1988)。律宗では久米多寺の道爾(1254〜1324)に無本覚心参禅説話がある。道爾は由良法灯国師(無本覚心)の道風を聞いて、興国寺(西方寺)のむかった。無本覚心はあらかじめ衆徒に「三日の後に嘉賓(よい客)がやって来るだろう」といった。禅爾がやって来たということを聞いて、無本覚心は歓喜し、禅爾に対して慇懃に接し、誠実に対応したため、禅爾は宗旨を理解することが出来た(『延宝伝灯録』巻第34、泉州久米田寺円戒禅爾法師伝)。
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