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平成の虚無僧一路の日記

普化宗の日本開祖「覚心」について 

2015年11月11日 外部ブログ記事
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普化宗の伝説と無本覚心? 普化宗と普化の関係説話は、安永8年(1779)山本守秀編『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』3巻にみることができる。『虚鐸伝記国字解』は、『虚鐸伝記』なる本を山本守秀が注釈したものとされる。この『虚鐸伝記』自体も詳細は不明で、『国書総目録』第2巻に宮内庁書陵部に所蔵される(池底叢書27)とあるが実見していないため詳細は不明である。『虚鐸伝記国字解』は一部が「虚鐸伝記」として『古事類苑』宗教部1に引用されており、以降それによる。 遁翁がいうところによると、普化禅師は唐の人である。釈尊の教を継ぐこと38世にあたり、当世一大(一代)の知識(師家)である。鎮州にあっては自ら狂逸に甘んじて、鐸を振るい市に遊び、人に対するごとに「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打。四方八面来旋風打、虚空来連架打。(それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する。四方八方から来れば旋風のように応じ、虚空から来れば釣瓶打ちで片づける)」といっていた。ある日、河南府の張伯なる者がこの語を聞いて、大いに普化禅師の碩徳を慕い、普化に遊び従うことを要望したが、禅師は許さなかった。張伯はかつて管(楽器)をたしなんでおり、禅師の(鳴らす)鐸の音を聞くにおよんで、にわかに管をつくってこれを模倣した。つねにその音を愛好し、あえて他の曲を吹くことはなかった。管(楽器)をもって鐸の音としたのであるから、そのため名付けて「虚鐸」としたのである。代々その家に伝わること16世である。  張伯・張金・張範・張権〔字は大量〕・張亮・張陵・張冲・張玄・張思・張安・張堪・  張廉・張産・張章〔字は子操〕・張雄 (張雄の)孫の参は、壮年にして既にこの音に熟達し、かつ人となりは仏教をたしなんでいた。(張参は)舒州霊洞護国寺に到り、禅を寺僧に学んでいた。日本僧の学心(無本覚心)なる者もまたここに遊学していた。同じく学んでともに唱和し、(無本覚心と)張参はよき友であった。ある時無駄話をしていて、話は代々虚鐸を伝えて今もなおその曲(が伝わっていること)に及び、この調(しらべ)を愛好して、一たび演奏すれば甚だ巧みであった。学心(無本覚心)は一賞しては三歎して跪き、「奇かな妙かな。世の中の多くの管(楽の中)に、いまだこのような清調を聞いたことがない。賞すべきにして愛すべきものである。伏して請い願うところは、一曲を教授して妙音を日本に伝え(て欲しい)」といった。そこで学心(無本覚心)のために再度演奏し、これを学心に学ばせた。日が過ぎていき、(無本覚心の)禅は熟達し曲も習得したので、張参に別れを告げて、舒州を去って明州に出航した。南宋の理宗帝の宝祐2年(1254)、船で日本に帰った。この時は後深草天皇の建長6年であった。これより学心は、ある時は高野山に入り、ある時は洛陽城(京都)に出て、さまよっては年月を経ていたが、一寺を紀州(和歌山県)に造立して、西方寺と名づけてついにここに住んだ。世の中はその碩徳(無本覚心のこと)を大禅師と号した。弟子は日々ますます増えていったが、門徒中に寄竹なる者がいた。禅(に対する)心はことさらに切であり、師(である無本覚心を)を敬うことはますます甚だしかった。学心〈無本覚心)もまた寄竹と昵懇であるころは他の弟子と異なっていた。ある時学心(無本覚心)は「宋にいる時、虚鐸の音を伝え得ており、今もなおよくこれを演奏することができるが、これを長くお前に授けて、この伝を継がせたい」と告げた。寄竹は躍り上がって(喜び)拝謝し、この音を伝えられて熟達すると愛好した。日を経ないうちに他の弟子の国作・理正・法普・宗恕の4人もまたこの管(楽)を学び、世の人は「四居士」と称した(『虚鐸伝記』上)。 上の文は前述の『虚鐸伝記国字解』であり、この部分は阿野中納言公縄(1728〜81)が遁翁なる者の語るところを記録したものといい、『虚鐸伝記国字解』の編者山本守秀は「初巻本文と19ヶ条は、阿野家より再伝して山本守秀が久しく護持してきたものである。しかしながら楠正勝が虚無僧の始であり、その主意を記しているとはいえ、ただ虚鐸の由来だけで、その詳細は略されている。これは(阿野公縄が)虚鐸のことに関わっていないためである」(意訳)と述べているように(『虚鐸伝記』上)、楠正勝伝承と虚鐸関連の記載を求める山本守秀にはこの伝承内容は不満であったらしい。このことから『虚鐸伝記』自体は山本守秀による創作ではないことは明らかであるが、この無本覚心と普化宗を結びつける伝説のもととなったものが一体何であるのかは判然としない。 普化宗と無本覚心との説話はほかにも宝暦2年(1752年)頃の『普化宗問答』にも示されている。『普化宗問答』は宝暦2年(1752)1月に岩山高康(生没年不明)が一月寺の隠居に虚無僧のことに関する疑問を箇条書きにして問いただしたものであり、『国文東方仏教叢書』第1輯、宗義に活字化されている。『古事類苑』宗教部1に引用される「普化宗門之掟」と文章が類似するから、あるいは同種異本なのかもしれない。 開山は金先古山禅師である。金先という者は、人王第88代の聖帝深草院の治天である建長年間(1249〜56)頃、紀州由良興国寺開山法灯国師(無本覚心)が入唐して帰朝する時、普化禅師の四居、宝伏・国佐・理正・僧恕が同船して我が朝に来たのである。宝伏居士は暫く山城国宇治の付近に居を定め、普化の禅を流布しようと庵室をつくって行住坐伏の法容、ひとえに普化の遺風を慕っていた。居士は専ら尺八を吹いており、(このことは)始祖(普化の)振鐸の話に準拠したものであった。ある時仲秋(8月)の夜、河辺にて一曲を演奏した。その夜は夜空に雲がなく、河の水を(月が)照らすことは、金竜が波に踊るのに似ていた。ここにおいてにわかに水辺を起こし、筆端をそめて「一天清光満地金竜躍波」との語句を記した。その頃、金先という頭陀(托鉢修行僧)がいて、宝伏の行なう法会に参加して、ともに尺八を演奏して、各地を行脚修行して所々をめぐって東に下り、下総国小金の宿にとどまって歳月が過ぎていった。しかし宝伏居士は年月を経て没してしまったため、金先がその法統を継いだが、妙音はまた奇なるものであり、聞いて五惑六欲への迷いを照らして本来無一物(であることを悟らせ、これによって)順縁(順当な善い縁で仏道に入ること)を結ぶ者が多かった。ここに一宇を造立し、宝伏の記した語句よって山号を金竜山と号し、寺号を一月寺とした。この時の執権北条経時は金先の碩徳を尊んで、造立の大檀那として営なみ、金竜山一月寺といった。この開山はすなわち金先禅師であり、金先を菰僧の基とした(『普化宗問答』菰僧始祖并開山之事)。 以上のように、普化宗始源説話には無本覚心が何らかの形で登場するのであるが、『虚鐸伝記国字解』と『普化宗問答』にみえる無本覚心の位置は、積極的な伝播者であるとする前者と、無本覚心の帰国に宝伏・国佐・理正・僧恕が随行しただけであるとする後者では異なっている。前者は普化宗諸派のうち、寄竹派に伝わった説話と思われ、後者は金先派に伝わった説話のようであり、これらの差異に含まれない無本覚心のキーワードは一見して、普化宗にもとから伝わった伝承であるようにみえる。しかし両者はいずれも近世に成立した記録であって、無本覚心の伝記史料である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』および『紀州由良鷲峰山法灯円明国師之縁起』には虚鐸・尺八のみならず、普化に関連する説話はみられないのであるから、無本覚心と普化宗の関連説話は歴史上の事実を反映したものであるとは見なしがたい。 無本覚心と普化宗の関係は、無本覚心開創の興国寺(西方寺)が虚無僧の本寺であったことから生まれた伝承とみられ、興国寺(西方寺)は近世には普化宗寺院の本寺として一月寺をはじめとしたキン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮派13ヶ寺、鈴法寺をはじめとした括総派10ヶ寺、明暗寺をはじめとした寄竹派8ヶ寺、心月寺をはじめとした小菊派6ヶ寺、理光寺をはじめとした小笹派2ヶ寺、慈常寺をはじめとした梅地派13ヶ寺と、妙心寺派の寺院でありながら普化宗寺院52ヶ寺を末寺としていた(『普化宗雑記』上、日本国中宗門本寺連名寺号国所附)。興国寺は(西方寺)は近世には当知行13石で、妙心寺派における「日本四処道場」のひとつに数えられていたが、近世初期の段階では末寺として確認される歓喜寺・円満寺・長楽寺・法心寺・海雲寺のわずかに5ヶ寺であった(『正法山妙心禅寺末寺并末々帳』〈『大日本近世史料 諸宗末寺帳』上172頁〉)。しかし後には紀伊・山城・伊勢・志摩4ヶ国に末寺100ヶ寺を有する規模となっており(『寺院本末帳87(禅宗済家妙心寺派下寺院帳2)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中2165頁〉)、とくに51ヶ寺を有する普化宗の勢力は興国寺(西方寺)末寺の中にあっては一大勢力として異彩を放っていた。すなわり無本覚心と普化宗の関係説話は、無本覚心を開山とする興国寺(西方寺)が近世において普化宗寺院を末寺として獲得するにあたって、普化宗と無本覚心の関係説話が生み出されたものであるようである。 もっとも前述したように、無本覚心は萱堂聖の祖とみなされており、念仏と深い関係もあったことから、普化宗の直接的始祖でないにせよ、何らかの形で関係があることは否定できない。 

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