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雑感日記

昭和39年、(1964)カワサキレース本格的にスタートの年‐? 

2010年12月28日 外部ブログ記事
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★前回の自分史で書いたように、この年は『広告宣伝費をどのように使うのか』が焦点の1年だった。
予算はいっぱいあったのだが、初めての経験の広告宣伝は中々難しくて、第一線の営業部隊の希望など販売促進策がメインであったが、1億2000万円という膨大な予算を持て余してしまったような1年であった。
それでも結構いろいろと贅沢なことはしたのだが、
●広告宣伝課でヘリコプターを購入し日本全国あちこちに飛んでいた。と言っても、航空機部が下取りに取ってきたヘリで残存価格が100万円ちょっと、だったから運航経費を広告宣伝費で負担していたのである。大きなレースにはヘリを持って現場に臨んで、スズキ、ヤマハのライダーたちからもせがまれて、乗せて上げたりした。
●カキヌマサーカスにバイクを提供して、球体の中を走らせたり、日活と映画のタイアップなども言われるとおりやったりしたが、みんな大した額にはならなかったのである。
当時、吉永小百合との日活純愛路線などで、人気絶頂の浜田光夫が明石日活に舞台あいさつに来たと言うので、その当日明石工場にいらっしゃいと誘ったら、すぐ来てくれるほど、日活に対しては『カオが効いた』のである。当日工場のテストコースでバイクに乗せたまでは良かったのだが、それを聞いてすぐ横の発動機のエンジン工場の女工さんたちが大勢飛び出してきて、ラインが止まってしまったりした。
★この手のイベントらしきものの、一番大きかったのは
8月22日大阪のABCホールで行われた当時の人気番組、『源平芸能合戦』に川崎航空機として出場したことである。
毎日広告が、『タダでテレビ番組に出場しませんか?』と言ってきたのである。 『4つ、出し物を揃えればいい』と簡単そうに言うものだから、『やりましょう』と言ってしまったのである。
相手は、三洋電機であった。生放送で相手もあることだから、途中でやめたりは出来ないのである。4つの出し物のうち、当時有名であったコーラスと手塚部長の剣舞はすぐ決まった。
話を聞きつけて、本社も応援すると言うことになり、本社の岩城常務が単車担当だったので総指揮官に就任された。そんなことで、岐阜工場も応援してくれることになり、ハワイアンバンドが出場することになった。ハワイアンと言えばフラダンスだが、そのダンサーの手当は、女子社員からそれこそ田崎さんが見つけて説得してくれた。田崎さん(元川重社長)は、よほどこの源平芸能合戦の印象が強いらしくて、その後何度も私との話題になったのである。今なら簡単にOKであろうフラダンスの衣装も「腰みの」というわけにはいかなかったのである。
ただ、後の一つがどうしても見つからないのである。思い余って毎日広告に相談したら、多分今の吉本興業だと思うが、劇の脚本を専門家が書いてくれて演技指導もしてくれたのである。当時、ソ連の宇宙ロケットなどが話題の時代で、その劇は『かぐや姫』。専門家が書いてくれて指導してくれたので、金は掛ったが、なかなかうまく仕上がっていた。かぐや姫には本社の上路さん、おじいさんには富岡さんあとだれだったか?
 4つ揃ってほっとしていたら、岩城常務が、『うちは芸人を育てているわけではないから、芸は負けてもいいが、応援は絶対に負けてはいけない』と仰るのである。ABCホールに当日行く応援団を集めて、毎日応援の練習が続き、時間外手当や軽食なども、広告宣伝費で負担した。本番前日には、出場者全員を集めての予行演習をやったりした。テレビ局もこんなに、大がかりにやるところは見たことがないとビックリするような熱の入れ方であった。
然し、本番は、107:105という番組始まって以来の高得点で、接戦だったのだが、三洋電機に名を成さしめたのである。三洋の淡路浄瑠璃など本職かと思った。 現場の雰囲気では、圧勝であった応援も、テレビに映ってみたら、オリンピックの応援をイメージした三洋のチアガールの方が,現場ではバラバラだったのに俄然テレビ映りがいいのである。
『よくやったから、全員に記念品を配れ』とも岩城さんに言われて、この源平芸能合戦は、『タダのつもりが結構、お金は掛った』のである。
 
★こんなこともあったが、この年は何と言ってもカワサキのレースのスタートの年である。
契約ライダーは、神戸木ノ実の山本隆、歳森康師、厚木のカワサキコンバットの三橋実、岡部能夫、梅津次郎だったが、カワサキコンバットには毎月20万円の選手養成費を渡して、全国から見込みのある選手を集めて養成していたのである。その中に静岡の星野一義や秋田の金子豊もいたのである。
『日本のトップライダーをみんな集めたら間違いなく勝てる』などと思っていたものだから、ライダー契約金なども派手にはずんだ。ライダーたちの車は山本、歳森がS600、三橋は当時は最高級車シルビア、岡部が日産2000GTB、安良岡がフェアレディとモータショーなみで、そんな車が買えたのである。
カワサキノ契約金がいいと言う話は、レース界にはすぐ伝わって、当時の久保和夫や荒井市次などとトップライダーと、接触があったし、三吉一行や安良岡、田沢なども後半はカワサキに乗ったりした。当時の山本隆の契約金が100万円ほどだったから、10人集めても1000万円、15人集めたら絶対勝てると、本気でそう思っていた。星野はまだ未契約17歳で車の免許も持っていなかった。
まだMCFAJが主力のころで、春の朝霧高原の全日本ではまだまだだったが、
10月10日、東京オリンピックの開会式ノ当日から開催された伊豆丸の山の全日本では、90cc三橋実、オープン梅津次郎、メインの125cc日本選手権には山本隆と、4種目中3種目を制覇して、ようやくモトクロスにカワサキの名前が出てくることになるのである。
 
まだまだレースの知名度が低く、新聞などに書かれることは少なかったので、11月8日には、スポーツニッポンに働きかけて、スポニチ主催のモトクロスを、和歌山紀ノ川で開催することになったのである。このレースを皮切りにスポニチ主催のモトクロス戦は翌年シリーズで行われて、もちろん大きく記事になったのである。
カワサキが仕掛けたレースで、ちょっとは無理も効いたので、朝の練習で荒井市次と接触して指を骨折した岡部能夫の代わりに、コンバットの運ちゃんで現場に来ていた星野一義を岡部能夫の名前で走らせたりしたのである。これが以前ブログにも書いた『星野が初めてレース場を走った日』なのである。転倒して救急車で病院に運ばれたりしたが、誰もあまり気にもかけなかった、誰も知らない無名の新人だったのである。星野インパルのホームページには、これがデビュー戦と記載されていて、岡部能夫の名前で走った確かにデビュー戦ではあったのである。
私は、広告宣伝の担当をしていたが、この年レースの現場を担当してくれていたのは、故川合寿一さんと、大西健ちゃんだった。その大西君も今年お亡くなりになってしまった。
だんだんと仲間が少なくなるのは寂しいことである。ご冥福を祈りたい。
 

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