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平成の虚無僧一路の日記

今日は何の日 白虎隊自刃の日 

2015年08月23日 外部ブログ記事
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今日(8月23日)は何の日。ネットで検索すと「白虎隊自刃の日」とある。
であるからして、ラジオやテレビでも、そのように放送される。
しかし これは旧暦なので、しかも、1868年は「閏月」もあったので、
8月23日は、新暦では10月10日頃。東北のことだから、氷雨降り
寒い日だったのだ。
テレビドラマなどでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いをしているが、
戸の口原の会津藩士の戦死者は わずか68名。戊辰戦争では、
刀槍を交えての白兵戦はほとんど行われていない。 私の直接の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから「石(ごく)つぶし」。
北会津村の名主「新田」家に寄宿し、村人に 読み書きソロバンを教え、
医術なども施していた。「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かい、
叔父の「牧原奇平」について戸の口に向かった。「敢死隊」は
郷頭、肝煎、代官、支配役で編成されていたのだ。 だから、隊員は、鉄砲も持たない非侍である。槍と刀では 大砲、
鉄砲には太刀打ちできない。みな逃げ出し退却してしまったと思われる。
白虎隊の生き残り「飯沼貞吉」の証言でも、「一晩中砲声が鳴り響き、
世が明ければ、西軍は続々と街道を進軍してきた」とある。一戦もまじえず、
ひたすら山中を逃げまどっていたのだ。「牧原源八郎」は、戸の口原で、左腕に鉄砲玉が当たって負傷した。
叔父の「奇平」は、強清水の陣営で、敵を防ぎきれなかった責任を
負って自刃した。「源八郎」は叔父を介錯して、左腕に被弾したまま、
城の南を廻って、北会津の新田家まで戻った。そこで手当てを受け、
一命を取り留めたのだ。その鉄砲玉は、60歳すぎてポロリと出てきた。
その「鉛玉」が当家の家宝になっている。
その時帯刀していた刀は、目貫にも柄頭にも「月の輪五本骨扇」の
家紋が打たれている。これは戦死した時、本人確認ができるようにと、
会津藩士は皆 柄の目貫は家紋をつけていた。
そして鍔は実践用に大丸の鉄鍔。また、鞘には金の粒を隠し入れる
ポケットも細工されていた。なんぞの時、金もいるからだ。
この日、本家の長「牧原一郎」も甲賀口の郭門を守れなかったことで
自刃。その弟が「牧原奇平」。その二人が自決。会津戦争では 一族で
8人が戦死か自刃して亡くなっている。
「源八郎」が 鉄砲傷を負い、城外の名主「新田家」に匿われたことで、
血脈が存続し、私がいる。

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