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平成の虚無僧一路の日記

会津と長州の友好 その3 

2015年08月22日 外部ブログ記事
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河合善順は、その後も東京に潜伏して、東京に戻っていた。奥平謙輔に、山川健次郎の兄の山川浩(大蔵)を面会させたり、長州藩士の前原一誠や大村益次郎と酒席をともにしたりして親交を深め、窮乏する会津藩士とその家族のために、1,000円もの救済金を引き出したり、藩主の助命嘆願と会津藩再興の周旋を依頼したりしている。 前原一誠は松下村塾の「四天王の1人」として知られ、師の松陰からもその誠実さを愛されていた。会津戦争においては会津征討越後口参謀として若松入りをし、戦後処理にあたった。この際、会津藩側の立会いを勤めた山川大蔵と知りあった。前原は戊辰戦争の功により、維新政府でも木戸孝允に次ぐ位置にあった。後に初代総理大臣になる伊藤博文など、この時点では小僧っこだった。山川大蔵らは、会津藩の再興を前原一誠に嘆願した。そして明治2年、会津藩の再興が認められる。「会津は戦争に負けて不毛の下北半島に追いやられた」というのは、実は“小説家の感傷”ということが最近言われはじめた。たしかに、事実は、「猪苗代か下北がどちらかを選べ」とされ、下北を選んだのは広沢や山川ら会津藩の重臣だったのだ。さて、会津藩としては、そのお礼に前原一誠に会津鶴ヶ城にあったとされる『泰西王侯騎馬図』の半分を贈っている。その前原一誠は、やがて木戸孝允と対立して、明治9年萩に下野して不平士族とともに「萩の乱」を起こし、捕らえられて処刑された。『泰西王侯騎馬図』はその後どう転々としたのか、今神戸市立博物館(南蛮美術館)に飾られている。重要文化財。私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp

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