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平成の虚無僧一路の日記

会津と長州の友好 その2 

2015年08月22日 外部ブログ記事
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禁門の変で長州が京から追い落とされてから4年後の慶応4年(= 明治元年)、形勢逆転。薩長土肥を中心とする西軍が会津を攻めた。その時、長州の村田蔵六(改名して大村益次郎)は、「仙台・米沢など周辺の藩を落とせば会津は降伏するであろう」と、会津への直接攻撃は避けるよう進言していた。会津を攻めるよう決めたのは、土佐の板垣退助と薩摩の伊地治正治である。一ヶ月の籠城戦の末、会津は降伏し、藩士は猪苗代に監禁された。その中に漢学者として知られた秋月梯次郎もいた。その秋月に思いがけなくも、越後口の参謀だった長州藩奥平謙輔から一通の私信が届けられた。秋月梯次郎は、以前萩に旅行し、萩の藩校明倫館で、長州藩士を前に漢学の講義を行ったことがあった。このときの聴講生の一人が奥平だった。その講義に感激したという奥平謙輔は、猪苗代に幽閉されている秋月の心中を慮り、一書をしたためた。しかし西軍参謀とはいえ、私信を会津藩士に届ける自由はなかったのであろう。さてどうしたものかと思っている矢先、河井善順の名が出た。禁門の変の際に長州兵を救った僧であるという。そこで、奥平は善順に手紙を託した。厳しい検問をどうすり抜けたのか、善順は秋月に面会して奥平謙輔からの一書を手渡した。この手紙に感動した秋月梯次郎は「奥平に会いたい」と、善順の下僕に変装して謹慎所を抜け出し、新潟まで逃走するのである。脱走は、見つかれば即死刑である。無事秋月は新潟で奥平に面談できた。そして「会津の将来を担う少年の面倒を見てもらいたい」と頼みこむ。善順は再び猪苗代に戻り、藩の重役と諮り、山川健次郎と小川享の2人の少年を従僕として連れ出した。他に2人が別行動で脱出したが、この2人は捕らえられ斬首されている。山川健次郎が厳しい検問を潜り抜けて新潟まで脱出できたのは、まこと善順の大胆剛毅な性格と幸運だったのだ。そして明治4年、山川健次郎は岩倉使節団に随行して海を渡るのである。妹の捨松も同船していた。

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