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100年を迎えた高校野球 雑感 

2015年08月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★高校野球100年を迎えたという。
戦後、高校野球が復活した昭和21年(1946年)は、私は神戸一中の1年生でまだ野球部には入っていなかった。私の野球部生活が始まったのは翌年の中学2年生からである。
戦後、野球は急激に広がってその頃は殆どの子供たちが野球に熱中した、そんな時期だった。戦時中は、敵国のスポーツということで私の小学校時代は野球のやの字もなかったのである。
 
第28回全国中等学校優勝野球大会は、1946年8月15日から8月21日まで阪急西宮球場で実施された全国中等学校優勝野球大会である。前回大会から6年間の空白を経て、敗戦からちょうど1年で復活した大会であり、甲子園球場が米軍により接収中のため、全試合阪急西宮球場で行われた。
 

 
Wikipedia にあるように戦後の夏の大会は甲子園ではなく、西宮球場だったのである。この復活第1回の優勝校が浪華商業、そして左腕平古場投手の快投が話題になった。テレビなどない時代で観に言ったわけでもないのだが、よく覚えている。
兵庫県は芦屋中学が代表で、有本投手、キャッチャーはぎっちょの左のキャッチャーはこの時以来見たこともない。有本は全球が山なりのスローボールだった。これは明石球場で予選があったのでこの目で見ているのである。
 
終戦後は鳴尾飛行場とともに米軍に接収され、1946年はプロ、中等学校の各種野球の公式戦の開催ができず代わりに阪急西宮球場で行われ、選抜大会は中止となった。翌年にはスタンドの一部とグラウンドの接収が解除されたため、春と夏の中等学校野球、プロ野球が再開され、甲子園ボウも始められた。
 とあるように昭和22年(1947年)からは、甲子園球場が復活したのである。
この年が中学2年生で野球部に入っていたのだが、このころの兵庫県の高校野球は公立校が断然強くて甲子園復活の年に、当時の神戸一中はいきなり春夏甲子園に出場したが、野球部員だったが応援に行っただけである。甲子園出場は目標ではあったが、いまのような周囲の熱っぽさはなかったように思う。特に応援団なども組織しなかったと思う。
この年から新制中学制度になったので、旧制中学には後輩が入って来なかった。高校3年生から中学2年生までの5段階なので、中学2年生は補欠の補欠のような感じだった。
甲子園球場で県予選が行われたりもしていたので、夏の大会は目標ではあったが、甲子園球場がそんなに特殊な球場ではなかったのである。
 

 
私の中学、高校時代の兵庫県の春夏(左が春、右が夏)の出場校である。
神戸1中の時はスタンドからの応援だったが明石高校では夏、出場したし、昭和27年以降大学野球部のリーグ戦は、関西6大学が西宮球場、近畿6大学が甲子園球場で行われていて、ホントか?と思われるかも知れぬが、私が一番多くプレーした球場は断然甲子園球場なのである。
当時は、甲子園球場そのものはそんなに神聖化された球場でもなくて、兵庫県にある単なる1球場だった。当時は正月に高校のOB戦がこれも甲子園で開催されていて、ここでも明石は何度も優勝していて、そんな試合でも甲子園でプレーしていたのである。
 
★どんな時代かというと、金田正一投手が私の1年上で、同期には阪神の吉田、巨人の藤田など1年下が全国優勝した植村、2年下が巨人の長嶋や本屋敷、野村さんは多分1年下だと思う。そんな有名選手はいたのだが、当時の野球のレベルは、いまの野球とは全然違う。金属バットとの差もあるのかも知れぬが、体格も技術も格段の差があったと思う。
当時の甲子園球場も明石球場も広すぎていずれもラッキーゾーンがあった時代で旧フェンスへのホームランなどプロでもなかなか難し勝った時代なのである。
日本のスポーツレベルの当時と現在と一番如実に表しているのが水泳のタイムだが、それと同じくらいの差があったのではないかと思う。
 
★いま仙台育英と東海大相模 途中だが6−6になったところである。
両校とも無茶苦茶強いが、野球学校で昔のようにその地区に育った人たちで構成されていた地域代表とは言えないのは事実である。
このあたりが、どうももう一つだなと思っている。日本の野球のレベルを上げるためならば、別の方式があるだろうし、100年を機に少し考えたらと思ったりもする。サッカーも同じようには思うが、まだ少し幾らかましかなと思うのである。
日本独特のシステムなのだが、学校のスポーツはどうあるべきなのだろうか?
 
そんなことを言っておられないほど、好試合になった。
実力伯仲で、その間のテレビを動画に収めた。
長嶋に代表されるように、スター選手は何かを持っている。150キロに近いボールを投げる左腕小笠原投手自らのホームランで決着がついた。

 
高校野球のレベルが年々向上するごとに、有名野球校の実力も向上する。あの応援団のような部員たちも、多分一般の高校に行けば第1線で活躍できる選手たちである。そんな選手たちが高校3年間を練習と応援団で終わってしまうのが、どうしても納得できないのである。
このようなシステムについて、天下の朝日新聞はどのような見解をお持ちなのであろうか?
 
 

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