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平成の虚無僧一路の日記

白虎隊の真実が明らかに 

2015年07月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



富田国衛著『会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い・日向内記と
白虎隊の真相』という本が出た。(おもはん社)
白虎隊については、ただ一人蘇生した「飯沼貞吉」の回顧談によって
自決までの経緯が明らかにされ、それが定説となり、ずっと今でも
語られている。それは、「白虎隊は8月22日、戸ノ口原に出陣したが、
その夜、隊長日向内記は《食料を調達してくる》と言って去ったまま戻らず、
隊員は、翌23日、敵の総攻撃に圧せられて退却し、飯盛山まで来たところで、
城の燃えているのを見て全員(19人)自刃した」というもの。
この飯沼氏の証言によって、気の毒なのは隊長「日向内記」である。
「食料調達と言って、隊員を置き去りにして逃げた卑怯者、臆病者」
というレッテルを貼られ、「その子孫は名乗り出ることもできない」とまで
書かれた。
私は、この「飯沼貞吉」の話にはずっと疑問を感じていた。白虎隊士は
37人いて、18人は隊長日向内記とともに城に戻っているのである。
また、数名が戦死したことも他の証言から明らかになっている。
 
今回出された『日向内記と白虎隊の真実』は、日向内記の無念を晴らすべく、
子孫を探しだして、子孫に伝えられた話をはじめ、多くの記録を網羅しての
真相解明である。
 
結論を言えば、
「白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり、戦死した者5名。隊長以下
何人かは無事に城に帰還した。飯沼氏のグループ16名は、飯盛山に
たどり着いた。だが、その内、飯盛山で自刃したのは飯沼氏を含めて
7人だけ。他は山をおりて、滝沢口で官軍に遭遇して撃たれたり、
再度引き返して、他の場所で自刃した。無事帰還した者もいた。
それなのに、帰還した者、戦死した者の名前は消されて、「飯盛山で
全員(19名)が自刃した」かのようにストーリーができあがってしまった。
 
「卑怯者」とされた隊長の「日向内記」は、戦後、喜多方に住み、斗南
(青森)に移住して困窮している藩士家族のために、米や味噌などの
食料をせっせと送り続けていたという。
 
ではなぜ、「19士全員が飯盛山で自刃」となったのか。白虎隊士の
遺体は、自刃者も戦死者も埋葬することも許されず、野ざらしのままだった。
半年以上も過ぎて ひそかに、飯盛山や、妙国寺に埋葬された。
その時はもう、自刃か戦死かの区別もつかなかった。
飯盛山に19士の墓が建てられたのは明治23年のことである。
この時、戸ノ口原で戦死した2人。強清水で戦死した2人。
他所で自刃した5名。そしてさらに 9月14、15日、一ノ堰の戦いで
戦死した「池上新太郎」「簗瀬武治」までが、8/23の自刃者として
加えられた。他所ですでに葬られていたり、遺骸も無く、ただ墓石だけが
建てられた者もいた。
飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には、白虎隊士の生き残り
6人も名を連ねているが、その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし、
生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で自刃した」となって
いるという。生存者も全員戦死になってしまったのだ。
これは、白虎隊の悲劇をことさらに宣伝するための作為だったと
言わざるを得ない。
明治政府は、この後、日清、日露、そして太平洋戦争へと突き
進んでいく。「白虎隊士全員自刃」のストーリーは、二百三高地の
無意味な突貫。太平洋諸島での玉砕にうまく 利用されたもの
と私は思っている。
 

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