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南朝・北朝の両立何故? 

2015年03月30日 外部ブログ記事
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後嵯峨上皇時代、2人後継者天皇を指名

上皇は、後深草天皇に対し、後深草天皇の弟恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促しました
上皇は、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子で世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にしました
上皇は、後継者定めずに崩御し、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執きっかけです
南北朝時代、後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となりました








後嵯峨天皇(ネットより引用)

邦仁王が、後嵯峨天皇に
父方の土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父の許で育ちました
邦仁王は、土御門家一門の没落で、苦しい生活を送り、出家も元服も難しい状況でした
四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がりました

公卿と幕府で後継者問題は難航
公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王を擁立しようとしました
執権北条泰時は、土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立し天皇にしました
当時の公家の日記には、邦仁王擁立を非難する記述が多数散見されます
天皇は、宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結び、自らの立場の安定化を図りました

後嵯峨天皇は、皇子へ久仁親王(後深草天皇)に譲位
実務担当の中級貴族を側近に登用して、上皇の元院政が展開されました
後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進み、後嵯峨上皇による院政は幕府の統制下にありました

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