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パワフルな天皇後醍瑚 

2015年03月29日 外部ブログ記事
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後醍醐天皇(第96代天皇、南朝の初代天皇、建武の新政を実施)

天皇を神聖化するため、肖像画では、弘法大師像、聖徳太子像との類似点があります
冕冠(中国の冠の一種、中国では皇帝から卿大夫以上)を着用してました
『建武の新政』は、中国の統治方法と類似した点あります
NHK『英雄たちの選択』より














後醍醐天皇(ネットより画像引)

後醍醐天皇誕生から天皇へ
大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子として誕生
持明院統の花園天皇の即位で、後醍醐皇太子となり、花園天皇の譲位を受けて31歳で天皇に即位
後宇多法皇は院政を停止し、後醍醐天皇の親政が開始される

後醍醐天皇の鎌倉幕府との戦い
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚したが、幕府は後醍醐天皇を処分もしなかった
天皇は、その後も倒幕を志し、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する
大覚寺統に仕える貴族たちは、邦良親王を支持する者が大多数で、後醍醐天皇退位の圧力は強まっる
再度の倒幕を計画し、三種の神器を持って挙兵したが、幕府軍に敗れる
幕府は、後醍醐天皇が京都から逃亡すると、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた

後醍醐天皇倒幕成功
後醍醐天皇は、隠岐島に流されたが、隠岐島から脱出し再度挙兵する
幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が、後醍醐天皇に味方して六波羅探題を攻略し陥落させる
東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて、鎌倉幕府北条氏(高時)を滅亡させる

後醍醐天皇『建武の新政』の実施と失敗
後醍醐天皇は、光厳天皇で行われた人事を全て無効にし『建武の新政』を開始
傍流の自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした
恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士への、既得権の侵害で不満生じる
増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策なども政権批判へとつながった
倒幕に功績のあった護良親王、足利尊氏との確執

後醍醐天皇南北朝時代
足利尊氏は、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る
足利尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る
廃帝された後醍醐は、南朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる
後村上に天皇を譲位し、京都奪回を遺言して崩御
後村上天皇は、後醍醐天皇の大法要を行う、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営す

足利尊氏の離反と足利幕府創立
足利尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る
後醍醐天皇軍派の新田・楠木軍は、足利尊氏との湊川の戦いで敗北する
足利尊氏は、光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し幕府を開設する

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