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雑感日記

錦江ホテル 

2015年02月15日 外部ブログ記事
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★明石のお城は確か錦江城だった。
子どもの頃、夏冬の休みに、朝鮮ソウルから毎年戻ってきていたが、その時毎日のように行っていたのが錦江ホテルである。
そのオーナーは伯父で、支配人は叔父がしていた。 別に伯父の本業ではなくて半ば趣味のようなホテルで、その庭園も調度品などもなかなか立派だった。
この頃の検索は何でも出てくるものである。
『錦江ホテル 明石』 と検索したら、ずらーっと懐かしい写真が並んだ。
  
    
 前に止まってる車は、伯父の乗用車で、オールドモビールかパッカードのはずである。
子どもの頃から、車には至極興味があって、よく乗せて貰った。
今なら、当たり前の話だが、ラジオがついいているのが珍しかったのである。
勿論、運転手さん付きで、伯父が運転していたわけではナイ。
 
 

 
英語の表記があるのは、外人客も珍しくなかったからである。
明石川で取ってきたウナギの稚魚をいっぱいこの池に離したのを覚えている。
夏は、この前が明石海岸だし、私の遊びの基地だったのである。
 
 
★このホテルのお陰で、私の人生の進路が決まったと言ってもいい。
戦争が激しくなった頃、当時の西明石の川崎航空機に来る軍人の宿舎としてこのホテルが接収されたのである。
その当時の総務部長が砂野仁さんで、伯父と川崎航空機との間で、100万円ちょっとで売買契約書が交わされているのである。
私は川崎航空機の財産課に配属されたので、その契約書を目にしたので、その売買金額など知っているのである。
 
戦後になっても、伯父と砂野さんは親交があったので、
私は砂野さんの薦めで神戸1中にも行ったし、卒業後砂野さんのコネで川崎航空機に就職することにもなったのである。
 
 
★伯父は戦時中は、朝鮮の南鮮合同電気のオーナー経営者だったのだが、その基盤は祖父が創った大田電機という会社からだろう。
 
   
 
これがネットに載っている祖父の記述だが、私は祖父古谷虎雄を知らない。
伯父も父も、若いころ祖父を亡くし(大正13年)  新社長にはなったが、川島、青柳、竹内さんなどが実際には支えていたのだと思う。
私は明石で生まれたのだが、人生の最初の記憶は大田で、隣のお家が竹内さんで、そのお兄さんには遊んで頂いた記憶が、人生の始まりなのである。
 

 
 
★朝鮮総督府の政策で6社合同の電力会社になり、本社も京城に新しく創られて、多分それで大田から父も京城に居を写したのだと思う。
ちょうど私が小学校に入学する1年前ぐらいだったと思う。
幼稚園には行かなかったが、京城桜が丘国民学校に入学したのである。
この南鮮合同電力株式会社は朝鮮でも最大と書かれているが、当時は日本でも最大の電力会社だったように思う。
京城の半島ホテルの立派なビルにその事務所があって、伯父は年に何回か京城を訪れていただけで、勤務などしていたわけではナイ。
そんな片手間に、明石で錦江ホテルを持っていたのだと思う。
 
 
★こんな戦前の境遇だったが、 明石の錦江ホテルも、朝鮮の電力会社も、戦争のために消え失せてしまって戦後になるのだが、伯父や父のその後を見ていると、結局何もすることなく一生を終わってしまった感がある。
大学卒業後、直ぐ社長、副社長などの地位にも付き、その後合併してからは、多分株の配当などで暮らしていたのだと思うが、
終戦という環境の大転換の中では、元々が立派な会社であったために余計に何も出来なかったのかも知れない。
そんな伯父を見ていて、伯母が 『おじいさんは偉かった』というのを何度も聞かされたが、なかなか人の生き方はそう簡単に変えられないのかも知れない。
そう言う意味では、私などはサラリーマンをしながらも、創成期のカワサキの二輪事業に巡り合って、30歳の頃から間違いなくずっと経営だけにタッチして、好きなように新しいことばかりをして、生きられた。
そんな経験があって、今でも『新しいこと』ばかりに取り組んでいる。
 
そんな『巡り合わせ』みたいなものを、私に与えてくれたのは間違いなく、『古谷脩一』 伯父なので、伯父には感謝している。
ちなみに、祖父がつけた名は、 伯父が『古谷脩一』 父が『古谷錬ニ』 だったのに、
なぜか、二人とも通称を 『古谷修輔』 『古谷錬介』 と改名して使っていた。
祖父の付けた名前のままにしていたら、もう少しいい運が巡ってきたのでは、などと思ったりしている。

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