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平成の虚無僧一路の日記

豊田市に「牧原」の字名 

2014年12月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



当家の系図の冒頭に「三河、松平郷・牧原の出」とあるが、
その「牧原」の地を探し求めて半世紀。豊田市の東、「くらがりm
渓谷」の手前に「牧原」というバス停を発見。
そして『三河国額田郡誌 全』 大正13年 額田郡役所発行 に
次の記事を発見。
P.331 「宮崎村・石原字牧原に不動の瀧在り。本宮山北麓より
流下する乙川の清流、懸って 丈余(一丈=10尺=約3m) の
瀧となす。幽寂なる四囲と共に、夏なお寒きを覚ゆ。同所に祀れる
不動尊は武田信玄の守本尊なりと云ひ伝ふ。傍らに碑石あり」
 
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さてさて、三河の松平郷近くの「宮崎村・石原・牧原」(現豊田市)に
なぜ「武田信玄の守り本尊」だったという不動明王像があるのか。
ここからは、想像をめぐらすしかないが。
 武田の末流に「武川衆」というのがあり、その中に「牧原」姓の者もいた。
彼らは、国境周辺に出張って、諜報活動もしていた。武田信玄は
元亀3年(1572)12月、浜松の徳川家康を 三方原(静岡県浜松市)に
おびき出して破り、翌元亀4年、野田城を攻めたが、その時、城内から
発せられた鉄砲玉に当たって負傷し、鳳来寺山で一ヶ月静養。
病はますます重くなり、甲州に引き返す途中で死亡した。
 
この時、鳳来寺を武田が占拠していた時、武川衆の牧原が、ここ
宮崎村に来たのではないか。その7年後の天正10年、武田勝頼が
滅亡した後、武川衆は徳川に臣従している。側用人として出世した
柳沢吉保も武川衆の一人。当家の祖は、桜井松平→水野重仲→
そして会津保科松平家に仕えた。
 

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