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平成の虚無僧一路の日記

尺八大名 島原に死す 

2014年11月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



江戸城で「殿様踊り」に合わせて尺八を吹いたという「板倉重昌」は
天正16年(1588年)板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。
松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。
寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となり出陣。
しかし、一揆の抵抗は強く、西国の諸侯は 小禄[の重昌の命に
従わず、乱は長引いた。 そこで、幕府は老中・松平信綱を改めて
大将として、島原に援軍を送ることとした。これでは “武士の面目が
立たない”。板倉重昌は 寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を
命じるが、4,000人ともいう大損害を出す。そして重昌も突撃を敢行し、
眉間に鉄砲の直撃弾を受け、戦死した。享年51。
板倉重昌の嫡子「重矩」は、後に 老中や京都所司代を務め、
5万石にまで加増される。子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、
信濃坂木藩、そして最後は陸奥福島藩主となり、明治まで続いた。
 
 

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