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修学院離宮、何か違う感じの離宮? 

2014年09月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



宮内庁の許可貰えば『御所・仙洞御所・桂離宮・修学院離宮』参観出来ます

修学院離宮は、他の離宮・御所と異なり、住宅地の様な、広く生活感の有る離宮でした
歴史背景知らずに修学院離宮参観したので、違和感感じましたが、NHK『歴史秘話』を視て納得しました
徳川家は、天皇家と姻戚関係持つ為、徳川和子を後水尾天皇と結婚させました
後水尾天皇、徳川和子は、徳川家の意向に添った行動嫌い、徳川家との摩擦で疲れた生活でした
後水尾天皇、徳川和子は、生活の場の離宮として修学院離宮造営しました
























後水尾天皇(ネットより引用)

後水尾天皇誕生の経緯
後陽成天皇(後水尾天皇の父)は、次男の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいました
徳川家康は、次期天皇として、三男の政仁親王(後水尾天皇)の擁立を望んでいました
結果、家康の意向により、政仁親王(後水尾天皇)が即位したので、後陽成天皇(父)は不満でした
徳川幕府は、政策決定から朝廷を排除し、幕府の方針に沿い、幕府に忠実な朝廷運営を行いました
結果、朝廷と徳川幕府とで、常に摩擦が生じていました

後水尾天皇が即位すると、徳川家康は徳川和子(孫)入内を決めました
諸問題は有り延期されましたが、徳川和子が女御として入内し、皇子である高仁親王が誕生しました
江戸幕府との摩擦の結果、後水尾天皇は辞任し、天皇の後見人として院政を行いました
後水尾上皇と幕府との確執は続き、徳川家光時代になり、朝廷との協調姿勢で院政が定着しました
妻東福門院(徳川和子)は、夫の政治方針に理解を示し院政を擁護しました

後水尾天皇(上皇・法王)の足跡
学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作し、「類題和歌集」の編集を臣下に命じました
達筆で、日光東照宮陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆の額が掲げられています
女性関係は派手で、宮中に遊女を招きいれたり、遊郭にまでおしのびで出かけました
中宮以外の女性に30余人の子を産ませ出家後も58歳で後の霊元天皇を産ませました
京都相国寺境内には、後水尾天皇の毛髪や歯が現存します
後水尾天皇は、歴代天皇の中で最長寿でした(除く昭和天皇)

徳川和子の足跡
徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫、後水尾天皇の中宮です
後水尾天皇の女御として入内しました(壮大な婚礼『東福門院入内図屏風』に描かれています)
皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)の生母です
徳川和子は、2人の男子を出産しましたが、長男・次男とも短命でした

修学院離宮概要
上御茶屋、中御茶屋、下御茶屋の3か所の庭園からなる、面積は54万平方メートルの離宮です
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいます
上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇の指示により造営した離宮です
上・中・下の御茶屋の間には、実際に耕作されている水田をも風景に取り入れています
上・中・下の御茶屋の間を結ぶ松並木の道は、明治天皇の行幸に備えて拡幅整備しました
下御茶屋(池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が造営されました)

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