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平成の虚無僧一路の日記

ロダンのモデルとなった日本人女性 “花子“ 

2014年04月24日 外部ブログ記事
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中日新聞夕刊に ただいま『幻の女優マダム・ハナコ』が連載中。
執筆者は「大野芳」氏。

「ハナコ」とは、フランスの彫刻家ロダンのモデルになった
唯ひとりの日本人。本名は「大田ヒサ」。

1868年(明治元年)尾張国祖父江村(現愛知県尾西市)に生まれる。
10才で旅芝居の一座に入り、その後名古屋で芸者となる。
1902年(明治35年)花子34才の時、デンマーク、コペンハーゲンの
展覧会で踊り子を募集している事を知り、単身ヨーロッパへ渡る。
日露戦争前のこと。“単身”とはすごいことである。

その後、「ハナコ」という芸名で、ロンドン他、18カ国を巡業。
人気を博す。1906年(明治39年)マルセイユのフランス植民地の
展覧会会場で出演していた時、ロダンに一目ぼれされ、モデルとなる。

ロダンは「ハナコ」をモデルにした彫刻を50数点製作。これは
ロダンの作品の中で、一モデルとしては最も多い数。

1921年(大正10年)53才の時、ロダンの作った2つの作品を携えて
帰国。妹が住んでいた岐阜の芸者置屋に身を寄せた。

その作品を見に、高村光太郎はじめ多くの人が「ハナコ」を訪れる。
1945年(昭和20年)岐阜市で、「ハナコ」は77才の生涯を閉じる。


花子が演じていた役柄は、「腹切り」や「仇討ち」もの。「フジヤマ・
ゲイシャ・ハラキリ」のイメージを定着させた人でもあります。
そんなわけで、日本ではあまり良く思う人はおらず、無視されたような
女性だったのですが、なんと、あのドナルド・キーン氏が注目して、
「ハナコ」のことをいろいろ尋ね歩いていたようです。

中日新聞の「マダム・ハナコ」は、その辺の事情が書かれているのですが、
その中で「澤田助太郎著『ロダンと花子』中日出版 1996」から引用
とあって、私はびっくり仰天。


実は「中日出版」とはいっても「中日新聞社」の子会社でもなんでもなく、
小さな出版社です。名古屋は「出版事業不毛」の地。経営は大変でした。

その時、私は千代田生命に勤務していて“リストラ希望退職者”の
候補者の一人。ある方から「中日出版の社長を引き受けないか」との
誘いがあったのでした。それで、一時「中日出版」に“席”を置いていた時に
出版したのがこの本です。

著者の「澤田助太郎」氏は「ハナコ(太田ひで)」の養子「太田英雄」の
娘婿で、「ハナコ」の妹「はま」の孫にあたる方です。母校「岐阜高校」の
英語教師を経て「岐阜女子大」の教授になられました。「ハナコ」の
写真を多数所持しておられ、ドナルド・キーン氏の訪問も受けています。

いやはや、この本もあまり売れず、「中日出版」は倒産してしまいましたが、
こうして、ようやく日の目を見たかと、ひとり悦に入っています。

おっと、話がそれました。
ロダンが絶賛し愛した「ハナコの顔」とは。
ハナコの“死に臨んだときの表情”です。

《花子のマスク》は、西洋人とは異なる、怒りと苦痛に耐える“苦悶”の
表情と、虚空を睨み放心したような顔。「その二つの顔をロダンは交互に
制作した」と「ハナコ」自身が語っています。

「ハナコ」をモデルにした作品は、ロダンが亡くなった後、ハナコが
フランス政府に懸命に働きかけた結果 譲られたもので、これを携えて
「ハナコ」は 1921(大正10)年帰国しました。
それは、今「新潟市美術館」の所有となっています。

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