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平成の虚無僧一路の日記

一休も念仏宗に改宗? 

2014年04月20日 外部ブログ記事
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「自力本願」の禅宗と「他力本願」の念仏宗(浄土真宗)は、
相反する、水と油と思っていたが、なんと「一休さん」、
禅僧でありながら、親鸞、法然上人を敬愛し、念仏宗に
改宗していたという。


一休の著書『狂雲集』に、「寛正二年六月十六日、大燈国師の
頂相を本寺にかへして念仏宗となる」と記している。

「大燈国師」は臨済宗大徳寺の開祖。一休が最も尊崇していた
師である。
頂相(ちんそう)とは、禅宗で師の法を継いだ証として肖像画を
描き、大切に所持しているもので、一休は「大燈国師の肖像画」を
大徳寺に返して、念仏宗に改宗した。そして『自戒集』には、
名も「純阿弥」に変えたとある。

寛正2(1461)年は 一休68歳。「親鸞・二百回遠忌」の年。
「蓮如」が山科本願寺で厳修した「親鸞聖人二百回遠忌法要」に
参詣し、その席で、一休が詠んだという歌が、

「襟巻きのあたたかさうな黒坊主 こやつが法は天下一なり」

親鸞上人を「黒坊主」といい「こやつが」と虚仮(こけ)に
しているが、禅宗では、皮肉りながら賛美するのが常例。

一休はその後も禅僧として過ごし、81歳で大徳寺の住持に
なっているのだから、この「念仏宗」への改宗宣言は、
一休ならではのジョークとも思える。一休関連の書は、
どの書も、この「改宗宣言」を軽く聞き流している。

しかし、もう少し深く、一休の深意を探るならば、この前年、
大変な飢饉となり、京の加茂川は、8万体もの遺体で、流れも
せき止められたほどだったという。その時、死者の供養と
飢えた人々への施粥(炊き出し)をしたのは、念仏宗だった。

当時の名だたる禅宗の寺は、貴族や大名の次男三男坊の
引き受け所である。衣食住にこと欠かない禅宗の僧侶たちは、
庶民の苦しみなど、“我関せず”だった。大徳寺も 何も
手を施そうとしなかった。そうした禅宗への失望、怒りが
一休の思いだったにちがいない。一休は、大徳寺の僧らを
時には揶揄し、時には痛烈に非難し、また『自戒集』で、
自分をも責め、苦しんでいた。


一休は、宗派間の宗論からは、完全に解き放された自由人
だった。こんな歌も遺している。

 「成仏は異国本朝もろともに 宗にはよらず心にぞよる」


一休は、親鸞の師「法然」についても称讃してる。

「法然上人を賛す」と題する詩を要訳すると

 法然上人は生き仏であったと伝え聞く。
 今は浄土の蓮台に端座しておいでなのだ。
 智慧才覚のある者にも愚痴放逸の人であれと教え、
 『一枚起請文』は最も奇跡の書という他ない


『一枚起請文』とは、法然が念仏への理解を述べた文章。
「ただ念仏申せば必ず浄土往生できると信じて称えるほかはない…」

一休には「禅浄一如」の思想があったか。
「禅浄一如」とは、禅門と浄土門は同じスタンスにあるというもの。
「自力聖道門」の禅宗と「他力本願」の浄土宗。両極に位置するように
思いがちであるが、実は全く一つなのであると。

みずから「風狂」と称した「一休」。乱世に生きた稀代の禅僧。
天才はえてして、奇人変人の如し。

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