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平成の虚無僧一路の日記

東條英樹の横暴「竹槍事件」 

2014年03月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「毎日新聞」で検索していて「竹槍事件」というのを知りました。

太平洋戦争の末期、1944年(昭和19年)2月23日付『毎日新聞』に
「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書かれたことに
東條英機が激怒して、記事を書いた「新名丈夫記者」を即刻 召集、
戦地に飛ばそうとした事件。

記事は「勝利か滅亡か 戦局は茲(ここ)まで来た」という見出しで、
南方における窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、
海洋航空機だ」として「海軍航空力を増強すべきだ」と説いている。

これは、海軍当局からは歓迎されたが、日本の敗色を明らかにしたことが、
時の首相「東條英機」(陸相)の怒りをかい、毎日新聞は、掲載紙の発禁、
編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は 編集責任者は
処分したものの、新名記者の処分は行わなかったところ、その後
ほどなく、新名記者が37歳にして召集された。

いやはや、時の総理大臣が、一個人の召集権まであったとは驚き。

同様のことが、前年にもあった。「中野正剛」の憤死事件。
中野正剛は、毎日新聞から朝日新聞に転籍したジャーナリストで、
政治家。1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を
発表し、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。幸い
尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるように
できている」と、東條英機を痛烈に批判した。この記事に東條は
激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じ、中野正剛を
逮捕した。

徳富蘇峰や鳩山一郎が、中野の釈放を各方面に働きかけ、松阪
検事総長でさえ「こんな理由ではとても起訴はできない」と
東條に反論した。

東條は、「起訴が無理なら、中野の議会出席を停止させよ」と
国務大臣に命じたが、これも「憲法上の立法府の独立を侵害
しかねないのでできません」と反論された。結局、中野は
10月25日になって釈放されるが、帰宅2日後の10月27日、
中野正剛は自宅で割腹自殺した。

自決の理由は不明で、一説には、東條から「息子を激戦地に
送る」と脅されたらしいとも。中野正剛ほどの気骨のある
人物でも、「わが子可愛いさ」には負けたのだった。

私の母方の縁者が、中野正剛の弟「中野秀人」に嫁いでいる。
そのせいか、母は「東條嫌い」で、東條の孫娘と称する
「東條由布子」が、「東條秀樹擁護」の喧伝活動を起こした
ことにも反発している。

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