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平成の虚無僧一路の日記

関が原で武蔵は東軍だった! 

2014年03月18日 外部ブログ記事
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吉川英治の『宮本武蔵』、「キムタク武蔵」の冒頭で、
宮本武蔵は「関が原の合戦」で 西軍(石田三成方)に付き、
敗れたため、故郷 美作に戻ったところ、残党狩りで捕えられた
ことになっている。

そして、「関が原」で西軍に付いていたとの理由で、仙台伊達家
からの仕官の話は取り下げとなった。

そこで調べてみた。

そもそも、「武蔵」は、関が原で 誰の下に所属していたのだろう。
当時の姫路の城主は「木下家定」。木下家定の母は「秀吉」の姉
だから、秀吉の甥。そして秀吉の正室「高台院・寧々」の兄である。

関が原の時は中立を保ち、その子「小早川秀秋」が 「高台院」の
勧告を受けて 東軍に寝返ったことで、徳川の勝利につながった。

その功績で、関が原の後、備中足守に2万5000石の所領を与えられた。
家定の後、姫路の城主となったのが「池田輝政」。

三河吉田(現豊橋)の城主だった「池田輝政」は、関が原では
徳川に付き、その論功で、姫路城主となり、西国の豊臣方大名の
監視役を務めることに。

まそれで、“西軍の残党狩り”となるのだが、「木下家定」も
中立を保っていたのだから、武蔵が西軍に加わったというのは
不自然。

そこで、驚き桃の木。「宮本武蔵」は「関が原」の時は「黒田如水」の
配下にいて、「東軍=徳川方」という説が浮上してきている。

「黒田如水」といえば、丁度今 NHK大河ドラマでやっている
「軍師黒田官兵衛」の事である。

黒田如水は関が原の時は九州で戦っていたので、武蔵も付き
従っていたとすると、九州に居たのだ。関が原には行っていなかった。
なんてこった。吉川「武蔵」は、その根底から間違っていたのだ。

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