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平成の虚無僧一路の日記

卑怯者の「武蔵」 

2014年03月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私は 吉川英治の『宮本武蔵』は大好きですが、「武蔵」には
いろいろ異説があって、「兵法者」の風上にも置けない“卑怯”な
振る舞いも、巷間縷々伝えられています。
「キムタク武蔵」のファンにも申し訳ありませんが。

まず、「吉岡一門」との対決

黒田藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に
著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、

「吉岡清十郎」との試合当日、武蔵は病気になったと断りを
入れたが、幾度も試合の要求が来た。それで、武蔵は 竹輿に
乗って試合場に到着した。清十郎が、武蔵を出迎え、輿に
横たわる武蔵に近づき、「具合はいかがか?」と覗き込んだ
ところ、武蔵は隠し持った木刀で清十郎を刺した。
その敵討ちと、弟の「伝七郎」は、五尺の木刀で 武蔵に
立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。

吉川英治の「宮本武蔵」では「吉岡伝十郎」との試合は
三十三間堂で行われた。あいにく雪が降り、シンシンと
冷える中、吉岡は、堂の外で武蔵を待つ。その武蔵は、
堂の中で火鉢に当たって、身体を温め、伝十郎を待たせる。
すっかり冷え切って、手足もこごえた頃を見計らって、
武蔵は、堂の中から飛び出し、伝十郎の背後から斬りつけた。

「一乗寺下がり松」では、先の試合が、時間に遅刻する作戦
で成功したため、今度は敵の裏をかいて、前日から松の木の
上に潜んでいた。そして定刻になっても動かず、吉岡の門弟は
「武蔵はまだか!?」と四方に様子を見にいって、居なくなった

そう、70人も相手に一人で戦えるわけがない。

巌流島での佐々木小次郎との決闘でも、武蔵は遅れていき、
小次郎をさんざんに、じらした。小次郎の刀が長いので、
舟の櫂(かい)で、小次郎の長刀より長い木刀を作り、
しかも、武蔵は門弟4人を連れていき、4人で小次郎を
撲殺して、舟に乗って逃げた。

いやはや、ひどい!

「キムタク武蔵」では、とても こんなことは描けませんでしたが、
「キムタク」の殺陣(たて)で気づいたことがあります。それは
剣道や居合いの流儀を全く無視した「棒振り剣法」。武蔵は
正式に剣術を習ったわけではなく、ガキの頃からの“喧嘩”、
“殴り合い、棒を振り回すだけの暴れ剣法”だったのでは
ということです。勝つためには手段を選ばぬ。そのように
思えてきたのは 私だけでしょうか。

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