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平成の虚無僧一路の日記

2.26事件「憂国の士、渋川善助」 

2014年02月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「2.26事件」とは何だったのか。よく解っていない私です。

私の認識は、2.26事件で処刑された一人「渋川善助」を
通してです。「渋川善助」は、会津若松市七日町にある海鮮問屋
「渋川」の長男でした。大正時代に建てられた建物は 今も当時の
まま残り、現在は「料亭」として営業しています。二階の六畳間
は「憂国の間」として「渋川善助」の遺影が飾られており、会津の
観光名所のひとつになっています。

「渋川」は、私の母の実家と近かったこともあり、私の子供の頃、
よく「渋川」から板前さんが来て、魚の調理をしていたのを
覚えています。

そして、「渋川」といえば、「あの2.26事件で処刑された
渋川善助の家よ」と、子供の頃から教えられていました。

しかし、なして会津の渋川問屋の息子が、民間人でありながら
2.26事件に関与して「死刑」になったのか、ずっと謎であった。

ネットで調べてみれば、なんと「渋川善助」は、会津中学で“神童”と
呼ばれ、陸軍士官学校予科に進み、御前講演を行うほどの逸材でした。
ところが、陸軍士官学校(39期)の本科卒業目前に、教官の腐敗と堕落を
糾弾し退学となるのです。その後、明治大学法科に学び、国家主義運動に
かかわり、1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等と
ともに維新同志会を結成。

当時、日本は大恐慌以来の不況に苦しみ、東北では 凶作により娘を身売り
するほど困窮していた。それを解決できない政治家、また、そうした民衆の
苦悩を省みず、一部財閥と軍部の首脳が癒着し、贅沢三昧の生活をしている
ことが善助は許せなかった。「民の苦しみは陛下のお心を悩ますこと」と、
義憤から2.26事変に加わった。

渋川善助は、湯河原に滞在していた前内大臣「牧野伸顕」の襲撃に加わったが、
牧野伸顕は危うく難を逃れている。襲撃部隊を率いて突入した「河野寿」は
警護の巡査の反撃に遭って負傷し、3月6日に自殺する。

つまり、渋川善助は 牧野伸顕を殺害していないにもかかわらず、死刑と
なった。その理由が、私には判らない。

善助を知る人は、海鮮問屋の長男であり、食事も一品、二品旨いものが
並べられたが、彼はそれらを 使用人の誰々にと分け与え、自分も
使用人たちと同じものを食べることを望んだという。

渋川屋の一室を「憂国の間」と名づけたのは三島由紀夫だった。

なお、妻「絹子」の甥が 俳優の「佐藤慶」。佐藤慶は、会津若松市役所の
戸籍係に勤務するかたわら、地元で「新劇愛好会」を結成して
演劇に打ちこんでいた。しかし会の発表会の日に無断欠勤して
役所を免職され、東京に出て俳優を目指した。

私の叔母は、その劇団に所属していた。そんなこともあって、佐藤慶は
私の好きな俳優であった。

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