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平成の虚無僧一路の日記

大同年間に何があったのか 

2014年02月23日 外部ブログ記事
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平安時代の初め「大同」という年号がある。西暦806〜810年。
平安宮(京都)遷都を行った桓武天皇の後「平城天皇」と「嵯峨天皇」の御世。
この「大同年間に創建された」と伝える寺が東北の各地にある。また、
東日本大地震で明らかになったが、「大同年間」に大地震や噴火が
あったとする伝承が各地にある。

那須連峰の茶臼岳、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王の刈田岳、そして会津磐梯山の
噴火。そして、それを鎮めるために建てられたという「恵日寺」『勝常寺」他、
茨城県の雨引千勝神社、早池峰神社、赤城神社、いわき市の湯の嶽観音、
富士宮市の富士浅間神社、京都の清水寺、奈良の長谷寺。香川県の善通寺を
はじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同年間の創建と伝えている。

さらに、神楽の起源も大同二年作。それだけではない。秋田県の阿仁銀山、
高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間。
兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、
伝承では大同二年である。

おまけに八溝山や森吉山などの鬼退治伝説。加えて、肘折温泉ほか、温泉に
まつわる伝承も「大同年間」というのが多い。

ところが、大同年間に、火山の噴火や津波、旱魃など天変地異があったと
する証拠は見つかっていないたのだ。それなのになぜ「大同年間」なのか。


大同年間とは「平城天皇」の世である。桓武天皇崩御の後即位したのは
「平城天皇」。その名前が意味するごとく、794年、桓武天皇によって
都は奈良(平城宮)から京都(平安宮)に遷都されたばかりなのに、その子である
「平城」は、奈良へ都を戻すことを画策した。これは、臣下の反対にあって、
在位わずか3年で弟の「嵯峨天皇」に位を譲ることとなる。

また、坂上田村麻呂の“蝦夷征伐”が終わったのも大同の直前だった。
そして、弘法大師空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。

まさに、大同年間は、坂上田村麻呂によって、東北まで朝廷の威光が
拡大した年であり、平城天皇は全国に観察使を派遣し、地方情勢を
調べさせたり。全国に「鹿島・香取」などの軍神を祭る神社を建てている。
福島県の中央には「田村郡」があり、また阿仁銀山の開坑なども、
田村麻呂の功績となっている。

加えて、弘法大師空海を迎えて、京都に清水寺を創建し、真言密教の
加持祈祷力を利用して、病弱だった「平城天皇」は 全国の寺社に
自分の健康祈願の祈祷をさせたのだった。

ところで、空海が帰朝したのは「大同元年(806)」と言われるが
はっきりしない。帰朝したばかりの空海の真言密教が即、都で
迎え入れられたとは考えられない。空海が重用されるのは次代の
「嵯峨天皇」によってである。

であるから、全国各地の「大同伝説」は、はるか後世の人々が、
空海と大同年間を結びつけて、作り上げ、広めていったものと
考えられる。その役回りを担ったのが、山岳信仰と密教を集合
させた「山伏」であった。磐梯山も湯殿山も、富士山もみな
「山伏による山岳信仰」によって支えられてきたのである。

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