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平成の虚無僧一路の日記

「覚心」のもうひとつの寺「妙光寺」 

2014年02月21日 外部ブログ記事
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「法燈国師覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山ですが、
なんと京都にも「覚心」が開いた寺があります。

京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺「妙光寺」。
こちらのサイトに「法燈国師覚心」のことが、実に
詳細に書かれていました。

「妙光寺」は 弘安8年(1285)に「覚心(1207〜98)」に
よって開創された寺とされていますが、実は「覚心」は
ここには長く留まっていません。

弘安4年(1281)亀山上皇は 覚心を都に招いて 禅について
尋ねた。そのときの覚心の回答に感心した上皇は、禅寺を建て、
覚心を開山第一祖としようとしたが、覚心は謝絶し、夜 密かに
抜け出して、紀州の西方寺に帰ってしまったのです。

弘安8年(1285)覚心79歳の時、内大臣「花山院師継(1222〜81)」が
北山に妙光禅寺を建て、覚心を開山として迎えたいと
要請した。

しかし無本覚心は 西方寺に留まったままで 京都に来なかった。
「前年に天皇のお心に背いて 西方寺に帰ってきてしまったので
あり、花山院のために上京したのでは、礼を失する」という
道理である。

妙光寺としては「衣鉢を師に返し、塔院を破却しよう」とまで
憤ったが、そんな心情を察して、覚心は突如上洛し、妙光寺に
参じ、また宮中に参内して天皇に謁見し、西方寺に帰った。

その後、覚心の弟子、高山慈照、東海竺源、孤峰覚明、無住思賢の
4人が 妙光寺の住持となっている。


1333年、後醍醐天皇が、鎌倉に叛旗を翻し蜂起した時、三種の
神器とともに妙光寺に行幸している。以後、花山院は南朝方として
仕える。

覚心の弟子(二代目)「孤峰覚明」は、貞和年間(1345〜50)の
初めに 妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、
足利尊氏(1305〜58)・直義(1306〜52)兄弟も参禅した。

尊氏・直義兄弟は、後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、
孤峰覚明を開山第一祖にしようと、再三要請したが、
孤峰覚明は拒絶して、夜 ひそかに遁走した。

紀州由良の「西方寺」が「興国寺」と改称するのは、
1340〜1346の南朝「興国」年間に、孤峰覚明が南朝二代目の
「後村上天皇」の帰依を受けて、南朝の元号である「興国」を
拝命したからである。

このような経緯で「興国寺」は二代目の「孤峰覚明」以来
南朝方となった。

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