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平成の虚無僧一路の日記

泣血氈 

2010年09月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



9月22日は会津が降服した日。その日甲賀町口の
路上に設けられた「降服」の調印式場には、緋の
毛氈が敷かれていた。これは、会津藩の御用商人
足立仁十郎が用意したものという。ネットで足立
仁十郎のことを知る。長崎の商人で、会津産の朝鮮
人参を中国に輸出することで、会津藩の財政を支え、
700石の士分に取り立てられている。京都守護職
時代に10万両、現在の金に換算して100億円もの
金を会津藩のために融通しているのだ。

さて、松平容保と喜徳(実は徳川慶喜の弟で、容保の
養子となり、会津戦争中は名目上の会津藩主)父子が
居並ぶ西軍の前にひざまずく。

西軍側の代表は、軍監中村半次郎。(後の 桐野利秋)。
会津側の小説では、「板垣退助ら参謀クラスが出て
くるかと思ったが、相手は“人斬り半次郎”の異名を
もつ農民上がりの無学文盲の徒。『謝罪状』を差し出し
ても、中村は読みもせず、付き人に廻してしまった。
その横柄な態度に怒る心を抑え、この屈辱を忘れまいと、
降服式に参列した家老たちが、緋毛氈を裂いて各々持ち
帰り、『泣血氈』として後世に伝えられた」などと、
悲劇的に書かれる場面だ。

ところが、ネットで見ると、中村半次郎は「降服式の
時、差し出された文書が読めないので、冷や汗もん
だった」という記述もあれば、「子供の頃は、貧しく
学問を受けられなかったので、自ら“文盲”だと公言
しているが、自学して日記なども書き遺している。
中村は、堂々と大役を果たしたが、そのことを誉められ
ると『子供の頃、忠臣蔵の赤穂城明け渡しの場面を
見ていたので、あの通りにやったのだ』と応えた。

あるいは「敗軍の将に同情して、涙を禁じえなかった」
とも語っている。明治になって「桐野利秋」と改名して
からは、結構ダンデイで 香水なども使っていたようだ。
その中村も明治10年、西南戦争で西郷とともに、城山の
露と消える。

会津では今日から3日間「会津祭り」が開かれる。
昨年はNHK大河ドラマ「直江兼続」で、会津も
伊達政宗の後は上杉景勝の領地だったのだから、
景勝を演じた俳優の北村一輝も招いて、多いに盛り
上がったようだ。

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