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平成の虚無僧一路の日記

偽書 『虚鐸伝記国字解』 

2014年01月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『虚鐸伝記国字解』というのは、普化宗と虚無僧の由緒に
ついて書かれた書。江戸時代の後半に刊行されたもの。

「虚鐸」とは「尺八」のこと。中国・唐の時代に「普化」
という風変わりな禅僧がいて、鐸を振り、「明頭来明頭打、
暗頭来暗頭打」と唱えて市中を托鉢していた。張伯という
者が普化を慕って入門を請うたが、許されず、普化は鐸を
振りながら去っていってしまった。それで張伯は普化の
鐸の音を模して笛を吹くことにした。それで、その笛を
「虚鐸」という。その張伯から16代目の「張参」の時、
日本から「覚心」という僧が留学してき、「張参」から
「普化宗」と「虚鐸」を学び、「宝伏・国佐・理正・憎怒」の
四名の居士を連れて帰朝した。

覚心は、帰朝後、紀州由良の興国寺の開祖となり、没後、
「法燈国師」と諡された。覚心の高弟「寄竹」は、京都
白河に「虚霊山明暗寺」の祖となり、また覚心と共に来朝した
「宝伏」の門人「金先(斬詮)」は下総小金の「一月寺」の
祖となった。

南北朝の時代、南朝の忠臣「楠正勝」は「虚風」から尺八を
習い、「虚無」と号して、天蓋を被り東国に落ち延び、
筑波山に籠もって「古通寺」を開いた。それで「正勝」が
「虚無僧の始まり」となった。

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虚無僧尺八愛好家には根強く信奉されているストーリーだが、
どう考えてもデタラメ。めちゃくちゃな内容。

まず「普化禅師」は「鐸」を振っていたのであって、尺八は
吹けなかった。

「張伯」は、笛吹きであって「普化」に入門を断られたので
あるから「普化宗」の僧ではない。

それから16代も続いたことになっているが、中国に「普化宗」
などは存在しなかった。

それなのに、虚無僧たちは「法燈国師覚心」を「普化宗」の
開祖と勝手に祭り上げた。

「法燈国師覚心」の正式な史料では「普化」のことも「尺八」の
ことも全く書かれていない。それで「法燈国師覚心」は、中国から
4人の尺八吹きを連れてきただけで、本人は尺八は吹かなかったと
修正する話も伝承されている。京都明暗寺の開祖とされる「虚竹」
については、中国から連れてこられた四居士の一人とする説と、
居士から「普化禅と尺八」を習った日本人とする説がある。

いずれも辻褄を合わせるための修正だが、年代など全く無視した
内容で、ますます辻褄が合わなくなっている。


明治になって「中塚竹禅」氏が、由良の興国寺で資料を調査した
ところ、覚心の日記・書簡等に、「普化宗」や「尺八」の事は
一言も記されていないし、宝伏等四名の居士も「寄竹(虚竹)」の
ことも全く確認できなかった。

「由良の興国寺」は、戦後「臨済宗大本山妙心寺派」の末寺に置かれ、
住職は「妙心寺」から派遣?されており、寺を訪れても「虚無僧とは
関係ありません」と冷たい。虚無僧側の全くの“片思い”なのである。


『虚鐸伝記国字解』は『虚鐸伝記』と言う漢文の書籍があって、
それを和文に書き改め解説した書という意味だが、その原本が
存在しない。

「楠正勝」は正史では実在が疑われている。「正勝」が尺八を
吹いたという史料も他には見当たらない。

というわけで『虚鐸伝記国字解』は「全くの偽書であるから、
信用出来ない」と言うのが、今日の定説である。

しかし、しかしである。「火の無いところに煙は立たず」。
なぜ「普化禅師」が虚無僧の教義上の宗祖となり、その日本開山に
紀州由良「興国寺」の開山「法燈国師覚心」が選ばれたのか、
という謎に私は大変関心があり、虚無僧研究会の会誌『一音成仏』でも
縷々述べてきた。今年、いよいよ集大成してみたい。

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