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平成の虚無僧一路の日記

南朝の末裔「熊沢天皇」と「竹内文書」 

2014年01月26日 外部ブログ記事
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私が生まれ育った家(目黒区祐天寺)の近くに「熊沢天皇」の
家があった。「熊沢天皇(=熊沢寛道)」のことは、もう
知る人も少なくなっが、戦後、「吾こそは南朝の正統なる
皇位継承者である」と名乗り出て、昭和天皇に退位を迫った
人物である。

1889年(明治22)生まれ。1966年(昭和41)77歳で
亡くなった。名古屋の北、一宮の「熊沢大然」の養子となり、
「三種の神器」を継承した。それで、名古屋では、熊沢天皇の
話題がたまに出る。東京の家は、どうやらお妾さんの家だったらしい。

「熊沢」氏の主張によれば、「熊沢家は、南朝の後亀山天皇の子孫で、
尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ。南朝9代目の天皇
「熊野宮信雅王」に始まる家系で、熊野宮の「熊」と 奥州の地名
沢邑の「沢」をとって「熊沢」姓を名乗った。


その「熊沢」氏は、先祖代々『竹内文書』を所持していたという。
その「竹内文書」歩か宝物は、どういう経路か、福島県双葉郡葛尾村の
「光福寺(後に観福寺)」という南朝方の寺に保管されていたが、
明治中期に「斎藤慈教」という虚無僧によって盗み出されたと
伝えられる。

その後、1920年(大正9年)に、天津教の「竹内巨麿」が古物商から
買い取り、「竹内巨麿」が 1928年(昭和3)に公開した。


この「竹内文書」に注目し、広く世に知らしめたのが「酒井勝軍」
(1874〜1940)である。

「酒井勝軍」は 山形県の生まれ。明治のはじめアメリカに渡り
賛美歌を習い、キリスト教の宣教師となった。

語学堪能なため、1918年(大正7)大本営付の通訳として
シベリア方面で従軍する内に、当時、西欧を席巻していた
「ユダヤ禍論」を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの
研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。

ところがその後、エジプトに行き、ピラミッドの調査や、
パレスチナで古代イスラエルについて調べるうちに、「親ユダヤ」
になり、「日本とユダヤは同祖」という「日ユ同祖論」を
展開するようになる。

ついには、モーゼが神から授かったという「十戒」は、日本に
まで運ばれ、日本国内に隠された。あるいは、「ピラミッドは
日本の何処かにもあるはず」という仮説を立て、神の啓示と
称して、次々とその場所を言い当て、予言を的中させた。

「酒井勝軍」は その探索旅行中、昭和4年、「天津教本部」を
訪れて、「竹内巨麿」から「竹内文書」や「モーゼの十戒」を
書き付けた「石」、「ピラミッド建造の由来書」などを見せられた。

酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグと
なっていった。

「竹内文書」の内容は、世界的、壮大なスケールで、原始
神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる
超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。

これには多くの学者が「偽書」と鑑定し、今日、信ずる者は
いないが、それにしても、これを書いた人の想像力、超能力
には驚かされる。

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