メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

「秋月梯次郎」のこと 

2013年10月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



父の遺品の中から『秋月胤永の一端』と題した小冊子が
出てきた。ガリ版刷りで18ページ。

文政7年(1823)生、父は「丸山胤道」(会津藩士150石)。
10歳で藩校「日新館」に入る。「天保13年(1842)19歳で
江戸に上り、藩儒(藩の儒学者)牧原只次郎直亮 に就いて
経術を学ぶ」とある。その5年後、23歳の時、幕府の
「昌平校」に入る。「牧原直亮」も昌平校で教師をしていた。

安政6年(1859)年、36歳の時、一年かけて諸国漫遊し、
薩摩まで行っている。『観光集』7巻、『列藩名君賢臣事実』
全十巻を著している。

この時、長州・萩で「奥平謙輔」に会っている。その縁で、
会津藩が降伏した翌日、越後水原にいた奥平は 猪苗代の
謹慎所に幽閉されていた秋月に親書を送った。

全文漢文で、かなりの長文である。大意は「貴国(会津藩)は
徳川幕府に尋常ならざる忠誠を尽くした。それはすばらしい
ことであり、天下すべてが、貴国のようになれば、外国人にも
笑われぬ国家となろう。ただ惜しむらくは、降伏開城した
こと。関が原の時、伏見城を守って自害して果てた鳥居元忠に
はなれなかったことである。

と、暗に藩主「松平容保」が自決しなかったことを揶揄している。
その上で「過ぎたことは言うまい。今後は、徳川に奉じたことを
朝廷にいたし、外国からの攻撃があった時は、武装して先頭に
立ち一新の心を表せばよい」。といった内容だった。

秋月は猪苗代の謹慎所でこの手紙を読み、深く感銘し、さらに
長文の返書を奥平に送った。そこには、
「会津藩の精神は元から尊皇にあり、幕府のためためだけには
なかった。鳥羽伏見の後は、国に帰り、ひたすら恭順し、
処罰を待った。それがどうしたことが、大兵が四方に押し寄せ、
財を盗み、子女を害し、とても王師(天皇の軍)とは思えぬ
略奪の限りを尽くした。そのために我が藩としては力の限り
応戦したのも、武士として当然のことではないですか。
しかし、最期まで死守しなかったのは、もしそうすれば、
永遠に、会津藩は王師に敵対した賊としての汚名を蒙ることに
なりましょう。降伏恭順して、天朝の裁きを待てば、わが藩が
先帝(孝明天皇)から特別の恩遇を賜ったことも考慮され、
公平な裁きを得るでしょう。
さすれば、聖天子の寛典な心にわが藩士は感じいり、朝廷に
対し、国家のため、旧に倍する忠勇剛毅な力を発揮することで
しょう。


戦後の混乱のさ中、お互いの居所がどうして判ったのだろう。
奥平は越後の水原にいた。手紙を届けたのは善順とかいう僧。
そして秋月は有為の少年を奥平に託すべく、猪苗代から
脱走させた。その1人が「山川健次郎」。後の東大、京都
帝大総長である。

さて、この時「5人の若者が脱走し、3人は見つかって
捕えられ、斬首された」という記事を読んだ気がするのですが、
さんざん探していて見つからず。それでブログが中断して
しまったのでした。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ