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平成の虚無僧一路の日記

「山本権八・三郎」と並んで「山室鉄蔵」の名が 

2013年07月26日 外部ブログ記事
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 ネットでみつけました。「福島県史料情報」第35号(平成25年2月25日発行)

『旧会藩士戦死名簿・貫属士族名簿』
(福島県神社庁文書553号)と題された若松県作成の公文書。


『旧会藩士戦死名簿』は、明治2年に若松県の戸籍係によって
会津藩関係の戦死者 2,634人が書き上げられたもので、
その内訳は、男 2,390人、女201人、農兵43人。

氏名はイロハ順に士・卒別に分けられ、戊辰戦争時の所属・
役職および続柄なども記されている。

ネットにアップされているページは、『八重の桜』に因んで、
「八重」の父「山本権八」と、弟の「山本三郎」が載っている。

弟の「三郎」は、「諸生組」に属し、慶応4年(1868)1月5日、
鳥羽・伏見の戦いで負傷し、船で江戸に送られ、芝の会津藩
中屋敷で亡くなった。

父の「山本権八」は『八重の桜』でも描かれていました。
会津藩玄武士中「伊与田隊」に所属し、9月17日、城南の
門田一ノ堰の戦いで戦死しています。

そしてその隣りに、私の母方の「山室鉄蔵」の名がありました。
「鉄蔵」は9月8日、飯寺で負傷し、10月27日南原の病院で歿。
(36歳)。なんと母は「牧原」より嫁いでいました。
右のページには「山川大蔵の妻」としか書かれていませんが、
『八重の桜』で爆弾の火を消そうとして爆死した「登勢」です。


また、たぶん次ページに載っているでしょう。「山室清治」は
玄武士中・伊与田隊に属し、9月17日の一之堰の戦いで戦死(58歳)。

そう「八重」の父「山本権八」と一緒の隊で、共に戦死したの
でした。

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