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平成の虚無僧一路の日記

「きみ」さんのその後 

2013年07月24日 外部ブログ記事
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『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」の最期に、興味深いことが
書いてあります。

西郷頼母と20年連れ添った「きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで
写真を撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が
霊山の神主になった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が
別れた理由を問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかった。


その3年後の明治26年、「きみ」は 47歳で 南会津郡
伊南村の神官「大宅正則」に嫁した。名前も「照(てる)」と
改名している。

そして、大正14年12月28日、その村で亡くなっている。
墓は「伊南村白沢」にある。

「きみ」の晩年に数年間仕えたという婦人の娘が、
「母から聞いた話」というのが面白い。

?「きみ」さんの誇りは最後まで「会津藩家老の妻」だったということ。
?「きみ」さんが「頼母」と別れたのは、「頼母」に
「三富(みとみ)安(やす)」という女性ができたから。

(「えっぇぇ〜」でござるよ。この女性については不明。
  頼母の最期をみとったのは「斉藤なか」)。

?「きみ」の最初の夫「遠山主殿」との間に生まれた実子の
 「横田つや」が、10年ぶりに 伊南村まで会いにきた。

?「西郷頼母」は、城を抜け出して、箱館なんかには行ってない。
 「頼母」は、藩主の命令で日光東照宮に隠れていたんです。

  (チョッと、これは誤報)

?「きみ」さんは会津戦争後、「伊与田」家の家族として
 「上北郡四和村伝法寺」に移住し、「頼母」とはそこで
  結婚したのです。


?が 加減な情報だけに、?も信じてよいかは判らない。
しかし「頼母」の本籍が「伝法寺村」であったことから、
「頼母」は明治3年、館林を出て、一時「斗南藩」まで
行ったのだろうか。かつての筆頭家老が、斗南に現れたと
なると、それなりの扱いと記録があろうはずだが・・・。
他の藩士に顔向けできず、密かにだったのだろうか。

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