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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」の謎、イッキに解消!? 

2013年07月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ネットで見つけた★季刊誌『暗河(くらごう)』1975年春号
「西南の役特集」■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

この内容は、実に衝撃的。これまでの「西郷頼母」の疑問点を
イッキに解消してくれる内容である。

「西郷頼母」の謎
?会津籠城戦が始まると、忽然と姿を消した理由
?敵の包囲網を潜り抜けて 米沢、仙台まで無事たどりついたこと
?箱館で実弟の「山田陽次郎」と落ち合い、行動を共にしていること
?何の目的で箱館まで行ったのか
?その後「館林藩」に幽閉されたが、なぜ一人だけ「館林藩」だったのか。
?明治5年には伊豆にいたが、何故伊豆に行ったのか。
?その時「伊与田きみ」を伴っているが、いつどこで「きみ」と一緒になったのか
?一子「吉十郎」の所在は?
?明治10年、西南戦争が始まると、西郷隆盛と通じていたということで
「都都古分神社」の神職を解任されているが、本当に「隆盛」と親交が
あったのか
?志田四郎を養子にした理由と入籍の時期


まず、城を抜け出して出奔したのは、藩主「容保」から 極秘に
「和平工作の道」を託され、「西郷隆盛」と会うためだった。

米沢への道は、米沢藩によって閉鎖されていたにもかかわらず、
米沢を経て仙台まで行けたのは、「隆盛」の手助けがあった。

箱館にまで行ったのは、西郷隆盛と通じていたことを隠すため。
箱館からは特別待遇で東京に護送されており、「館林藩」へは
西郷隆盛の指令で、「生田万」の事跡と書き残した文書を調べる
ためだった。


明治3年には、幽閉が解かれ、斗南藩へお預けとなる。それで
「頼母」は青森県上北郡伝法寺村に移住していた「伊与田きみ」を
招きよせ、結婚した。

そして明治5年の伊豆行きも、西郷の指令で、鉄砲製造基地の
調査のためだった。

一子「吉十郎」は、西郷隆盛の援助でアメリカに留学しており
西南戦争では西郷軍として参加していた。

西郷頼母が支援物資を送ろうとしていたのは、一子「吉十郎」へ
届けるためだった。


頼母が隆盛の支援を受けていたとなると、これまでの疑問点は
イッキに解決する。だが、薩摩憎しの会津藩遺臣の手前、
それは ひた隠しにしておかなければならない秘密だったのだ。

でも「吉十郎」が アメリカに留学したという事実があったのだ
ろうか。なぜ今まで誰も知らなかったのだろう。

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