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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」と「西郷隆盛」の間に親交があった!? 

2013年07月24日 外部ブログ記事
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会津藩筆頭家老の「西郷頼母」と薩摩の「西郷隆盛」は、遠祖を
同じくし、明治10年の西南戦争では、二人の間に手紙のやりとりが
あって、「頼母」も政府転覆謀議の疑いを掛けられた。ということは
知られているが、ネットで見つけました。衝撃の事実!?


★隆盛、頼母との連絡を策す

薩摩と会津は、元治元年(1864)の「禁門(蛤御門)の変」では
ともに長州を撃退した仲であり、「西郷隆盛」は 会津藩の「山本覚馬」等と
面識があった。

慶応4年(1868)正月「鳥羽・伏見の戦い」が起きた時、
京都にいて薩摩藩兵に捕えられた「山本覚馬」は、西郷隆盛に
よって救い出された。

その山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、「西郷頼母」が
非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために「頼母」との
接触を切に望んだ。

8月、「隆盛」は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、
会津藩の「山田陽次郎」(頼母の実弟)と「志田貞二郎(西郷四郎の父)」に
接触し、津川から若松城下へ急行せしめ、「西郷頼母」との連絡を求めた。

長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからも
わかるように、西郷隆盛は、会津戦争も道義的、平和裡に収束する道を
模索せんとしていた。

「西郷頼母」は8月26日、殿より密命を帯びて、一子「吉十郎」を
連れて、密かに鶴ケ城を出、越後口の萱野権兵衛長修のもとへ行っている。
「萱野権兵衛」に伝えたのは「城に戻らず、城外で戦え」というものだった。
しかし、それだけでは釈然としない。また、その後、「頼母」が米沢から
仙台まで、無事に辿りついているのも、不可解なことではあった。

会津から米沢へ通じる道は、米沢藩が 通行を阻止していたにも
かかわらずである。

頼母は、藩主より「隆盛と接触して、何らかの和平の道を見出すよう」
との密命を帯び、越後口へ向かった。「和平工作」を阻止しようとする
二人の刺客が「頼母」の後を追ったが見失ったとも。


8月27日、萱野権兵衛の隊は「只見川」の「船渡」で、西軍の攻撃を
食い止めていた。

9月にはいって、「頼母」は、薩摩の密偵の先導により、対岸に
待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。

『八重の桜』では「秋月梯次郎」が降伏の使者となるが、
「江戸城無血開城」も「勝海舟と西郷の会見」の前に、清水で
「山岡鉄舟」と「西郷」が会見し、ある程度の根回しができて
いたように、「西郷隆盛と頼母」との密かな工作があった。


この時、西郷隆盛は、頼母に自刃を断念させ、隆盛とともに、
「新しい国家建設のために力を合わせる旨」盟約するに至った。

しかし、西郷頼母は、会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、
隆盛との接触を秘し、時局安定のときまで身を隠すべく、弟「山田
陽次郎」とともに、薩摩の密偵に守られて、米沢から仙台に行き、
大鳥圭介軍に投じて 幕艦開揚丸に乗って函館へ奔ったのである。

 
箱館戦争でも、「西郷頼母」は積極的に戦陣で戦ったわけでは
なかった。「頼母」は戦列を離れて、江差で 隠棲者のごとき
生活を送っていたのである。明治2年4月5日、政府軍が
江差北方の乙部村に上陸してきたため、旧幕軍は土場から
松前方面へ後退した。

その時、頼母は官軍に「自訴して降伏」したため、4月16日
江差に上陸して来た黒田清隆に伴われて、松前へ、さらに箱館へ
移って、官軍の特別の保護下に入れられた。

明治2年5月、戊辰戦争の首謀者として、会津藩末席家老の
「萱野権兵衛」が死罪となるが、筆頭家老の「西郷頼母」は
「行くへ不明」として、死罪を免れる。これも5月20日
箱館に上陸してきた「西郷隆盛」の計らいであった。


明治2年9月東京へ護送された「西郷頼母」は 館林藩に
幽閉されたが、3年2月11日、幽閉を解かれる。

明治4年春、「頼母」の子「吉十郎」が「隆盛」の尽力に
よって島津啓二郎(当時13歳)と共に米国に留学する。

秋九月、「頼母」は「隆盛」の斡旋によって、伊豆半島の江奈村
(現松崎町)に行く。この地は、かつて慶応3年5月、西郷隆盛の
依頼により、頼母が、会津藩士・大島篤忠を 鉄砲基地調査のため
送りこんだところ。

「頼母」は一旦帰京した後、翌5年春、再び、江奈村に入り、
大沢村の差配大家「依田佐二瓶平」が設立した「謹申学舎」の
塾長となる。その年の10月、「西郷隆盛」は、小田原、湯河原、
下田に至って「頼母」と共に 南伊豆の「鉄砲鍛冶旧跡」を視察
している。

西郷頼母の子「吉十郎」は「西郷隆盛」の尽力により、明治4年
米国のアナポリス海軍兵学校他へ留学し、9年4月に帰国。
鹿児島で西郷隆盛の弟「西郷小兵衛」方に起居。「私学校党」に
与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において2月27日負傷
したため、西郷小兵衛の計らいで、長崎の洋医のもとへ送られた。

西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、銃弾に当って戦死した。
「吉十郎」はその後、東京に移り、明治12年に病死している。

西郷隆盛と会津の西郷頼母がこれほど関わっていたとは、
全く知らなかった。事実か否か、出典史料は全く無い。

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