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平成の虚無僧一路の日記

細川頼之と一休の寺「京都地蔵院」 

2013年05月29日 外部ブログ記事
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JR東日本のポスターに目が止まりました。
鬱蒼とした木陰に佇む山門。「地蔵院」とのこと。

一休が15、6歳の時、安国寺を飛び出して 入った寺が
「地蔵院」です。私はずっと「地蔵院」を探していたのですが、
所在地が判らなかったのです。もう存在しないと思っていたら、
「ディスカバー(発見)ジャパン」。JRのポスターで
見つけたのであります。ネットで検索したらありました。 


「地蔵院」は、南北朝時代の貞治6年(1367)、室町管領の
細川頼之が夢窓国師を開山とし建立。その後、北朝系天皇
(崇光・後光厳・後円融)の御願寺に準ぜられて隆盛を
極めたが、応仁・文明の乱で焼失。細川頼之の像と墓がある
とのこと。

「細川頼之」は、なんと三河国(現愛知県岡崎市細川町)の
生まれ。その妻が三代将軍足利義満の乳母であり、頼之も
義満の後見人として重用されていました。

そして、楠木正儀に和睦を勧め、正儀を北朝方に引き入れて
摂津、河内の守護に任じたのです。

一休の母は、この楠木正儀の孫娘と思われ、一休が「地蔵院」に
移ったのも、細川頼之の縁と私は考えています。

「細川頼之」と言えば、詩吟をやる人は誰でも知っています。
いえ、彼のことは知らなくとも、彼の詩「海南行」は有名です。

「人生五十、功無きを愧ず
 花木春過ぎて 夏すでに中ばなり」


頼之は、幼少の義満の後見人として、南北朝合一に尽力したのですが、
義満が長ずるに及び 疎まれて都を追放され、本領の四国に隠遁する
のです。その時詠んだ詩が「海南行」です。

四国では義堂周信に帰依し、周信の吸江庵に出入りしていました。
その吸江庵が、後に宇治川の辺にもありました。
そしてその庵の主は、一休の尺八の友“一路”とも言われます。

私は、一路の庵の名、吸江庵から「吸江流尺八一路」を 勝手に
名乗らせていただいています。

昔は50歳で隠居、隠遁の身。私も65で「功無きを愧ず」。
陽暮れて道遠し。頼之はその後、許されて政界に復帰します。
私に再起はあるのでしょうか。

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