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平成の虚無僧一路の日記

「蛤御門(禁門)の変」 

2013年03月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



3/24『八重の桜』第12回、「蛤御門の戦い」。

「蛤御門」とは、天明8(1788)年の京都大火災で、
それまで“開かずの門”だったのが 開いたため、
焼くと殻を開く蛤に例えて「蛤御門」と呼ばれる
ようになったと言われます。

「蛤御門」は最初「長州」が警備していましたが、
前年の「8月18日の政変」によって、長州が追放され、
会津藩が警備することとなったのでした。

一年後の1864(元治元)年7月、長州兵が逆襲。
2〜3千の兵を率いて上洛、蛤御門を警備している
会津藩に発砲しました。

長州の一隊は 筑前藩が守る中立売門を突破し
て御所内に侵入したが、乾門を守る薩摩藩兵が
援軍に駆けつけ、撃退したのでした。


この戦闘で、会津藩の戦死者は60名。長州藩の
戦死者は200名。少ない気がします。

今まで「蛤御門の戦い」というと、ドラマでは
チャンチャンバラバラの斬りあいでしたが、
『八重の桜』では「山本覚馬」が主人公なので、
鉄砲隊が前に出、長州との撃ち合いでした。
実際そうだったのでしょう。

最初に槍を構えて、銃弾を浴びた人は“お気の毒サマ”
です。戦死者名簿を見ると、100石以上の高士は
わずか5人。あとは下士や足軽、家人のようです。
黒谷の会津藩墓地には、藩士として22人しか
葬られていません。身分差別ですかな。

尚、この時の「山本覚馬」も「軍事取調 兼
大砲頭取」ですが「13人扶持」と 身分は
下でした。でも、鉄砲の重要性を藩の重役に
知らしめた場面でした。

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