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平成の虚無僧一路の日記

於大と多却姫 

2010年07月31日 外部ブログ記事
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家康の生母「伝通院(於大の方)」。於大は、刈谷の
城主水野忠政の娘で、松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)
を産むが、忠政の死後、於大の兄水野信元が織田家に
ついたため、於大は離縁され、後、阿久比の城主 久松
俊勝に再嫁し、定勝を生んだ。

というわけで、家康と桑名藩主 久松(松平)定勝は異父
同母の兄弟である。

多却姫は、家康の父広忠が、於大を離縁した後、平原正次
の娘に生ませた子とも、於大と久松俊勝との間に生まれた
娘ともいわれている。となると、定勝の姉か妹となる。

そして、多却姫は初め桜井松平家の忠正に嫁して、家広を
産む。忠正が若くして亡くなったので、その弟忠吉と再婚
するが、忠吉も若死にする。前夫の間に家広、忠吉との間に
忠頼が生まれた。最初「家広」が家を継ぐが、これも早世し、
異父同母弟の「忠頼」が桜井松平家当主となった。

そして多却は、家康の命で、信州高遠の保科正直に再々嫁し
正光と、(後に北条家を継いだ)正重の2男と2女を生んだ。

吾が家の祖が最初に仕えた松平忠頼の母と、最後に仕えた
保科正之の義祖母が同じ、多却姫だったということになる。
不思議な縁を感じる。
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