メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

徳川家康も非人の出だった? 

2013年02月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



明治35年 村岡素一郎が『史疑・徳川家康事跡』を
世に出して「徳川家康 替玉説」を唱えた。

家康の伝記には不可解なところが多い。まず、
三河松平の出でありながら、「徳川」に改姓し、
松平本家の「太郎左衛門家」は、江戸時代を通じて、
わずか五百石と冷遇されていたこと。
正室の「築山殿」と長男の「信康」を、あっさりと
殺害してしまったことなどである。

その謎に、初めてメスをいれた書である。

村岡説は、「松平」氏は本来、三河松平郷の豪族で
「藤原」」姓であったのに、家康が「先祖は 新田一族の
世良田某で、「源」姓であると系図を作り変えたことに
疑問を投げかけ、家康自身が、流れ者の願人坊主「世良田
二郎三郎元信」で、桶狭間の後、岡崎の「松平元康」を討ち、
元康にすり代わったというもの。

「願人坊主」とは、物乞いをする有髪の僧を指す。
(これは虚無僧と同じ)

「世良田元信」は駿府生まれの駿府育ち。永禄3年、
「桶狭間の戦い」の直前、元信は、駿府に人質として
きていた岡崎の松平元康の子「竹千代(後の松平信康)」を
誘拐して逃走した。

そして 桶狭間で義元が信長に討たれると、混乱に乗じて
浜松城を落とし、織田信長と通じて、岡崎の松平元康を
暗殺する。

「元信」の切り札は「元康」の子「竹千代(信康)」を
擁していたことだった。

村岡説では、家康の祖父「松平清康」が家臣の阿部弥七郎に
暗殺された「守山崩れ」は、実は「元康の死」を「清康の死」
としてカムフラージュして語らせたもの。「先祖が徳川郷から
流れてきて松平の養子になった」という系図は、先祖ではなく
「家康」本人の話。

そして、「松平元康」の正室「築山殿」とその子「信康」は、
邪魔な存在だから殺してしまった。

ま、これで「家康」にまつわる不可解な事件は、すっきり
納得がゆく。もちろん、歴史学者はみな「荒唐無稽」な
創作話ととりあわないが、「家康」の出自が「願人坊主」と
いうことに私は注目する。

虚無僧が「神君家康公のお墨付」を頂いていると主張し、
それが徳川200年の間、通用してきた。幕府もそれが
「偽書」とわかっていながら黙認してきた。現代なら
「公文書偽造」で即刻逮捕。江戸時代なら死罪は免れない。
それがまかり通ってきたのはと、家康の出自が「願人坊主」で
あったことに関係しているのではないかと思えるのである。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ