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平成の虚無僧一路の日記

「一休」と「楠正勝」 

2013年01月31日 外部ブログ記事
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「一休」には「南朝」の影が色濃くつきまとう。
東映アニメの「とんちんかんちん一休さん」でも
母は南朝方の出で、南朝の残党が一休をさらって
南朝の天皇に担ぎだそうというシーンが出てくる。

一休の死後、弟子たちによって編纂された『一休和尚年譜』の
冒頭に、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇
の寵愛を受けていたが、懐剣を懐に偲ばせ、帝の命を狙っている
と讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」と
ある。

一休は、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の楠の血筋で、
北と南の板ばさみだったのだ。6歳で「安国寺」に預けられるが、
「安国寺」は、足利尊氏が滅ぼした後醍醐天皇をはじめ、
楠正成、新田義貞ら南朝の忠臣の霊を祀るために建てられた
寺だった。そこで、曽祖父の楠正成の菩提を弔わせるために、
いれられたのだが、もうひとつ理由がある。

それは、足利3代将軍義満は、自分の子供「義嗣」を
次期天皇にしようと企み、一休が邪魔だったのだ。
一休は後醍醐帝の後、101代天皇になれる人だった。

北と南の双方の板挟みになり、また足利義満の監視下に
置かれるという運命に抗ってか、一休は安国寺を
飛び出す。そして生涯を一蓑一笠の托鉢僧で過ごそうと
する。

だが、一休は大阪の「住吉大社」にしばしば滞在している。
ここは、後醍醐天皇の子「村上天皇」の安在所だった。
そして、南朝に心を置く者たちがよく集まってきていた。
一休は77歳の時、ここで盲目の女性「森女」と出会い、
薪村に連れて帰る。

また、神仏混淆の時代だから、神家の津守氏からは
大徳寺の住持も出ているのだ。一介の托鉢僧として
生きてきた一休が、81歳で「大徳寺」の住持に
なれたのは、住吉大社の後押しがあったからという。

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