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平成の虚無僧一路の日記

会津東山 「天寧寺」 

2013年01月29日 外部ブログ記事
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会津東山温泉へ向かう東山街道の手前、山肌に「萬松山天寧寺」という曹洞宗の禅寺があります。

寺域はかなり広く、「近藤勇」の墓の他に、会津藩国家老
「萱野権兵衛」とその子「郡長正」の墓。また『会津史魂』の
作者「早乙女貢」氏の墓もあります。

「天寧寺」は、応永28年(1422)、当時の領主「蘆名盛信」が
「傑堂能勝」を招いて開いたのが始まりと伝えられています。

天正17年(1589)伊達政宗に滅ぼされるまで、会津を治めて
いた「芦名」氏の菩提寺であり、最盛期には、僧堂12、雲水
1千余名を擁する大寺となり、会津地方の曹洞宗僧録司の格式を
得ていました。

伊達政宗に攻められた時、天寧寺も兵火に罹り、一堂伽藍を
焼失してしまいます。江戸時代になって、会津の領主となった
「保科正之」は、「東照大権現・徳川家康」にならって神道で
祀られ、会津藩主と家臣は、代々「神道」でした。

ですから、江戸時代は藩の特別な庇護を受けることもなかった
のですが、会津の古刹であり、庶民の信仰の対象となっていた
ようです。


さてさて、勧請開山の「傑堂能勝」が、虚無僧にとっては
見落とせない御仁なのです。

江戸時代に書かれた、虚無僧の縁起書『虚鐸伝記国字解』では、
虚無僧の始祖を楠木正成の子「正勝」としており、「正勝」は
「虚無」と号して、深編笠で顔を隠し、普化僧となって東国に
落ち延び、東国の諸氏に南朝の最興を促した。

そして、筑波山を開き、最後、会津まで来て「天寧寺」を開いた。
「傑堂能勝」こそ「楠木正勝」であると。ま、とんでもない
荒唐無稽な創作話ですが、江戸時代の人が「会津の傑堂能勝」を
「楠木正勝」に見立てるほど、「傑堂能勝」の名は知られて
いたということです。

ついでに、江戸幕府の影の宰相「天海僧正」も、会津の出で、
芦名の一族と云われています。「天海」は「明智光秀」という
噂もありますが、こちらも、年代が合わないから「真っ赤な嘘」
です。

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