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平成の虚無僧一路の日記

もうひとつの「座頭市」物語 

2013年01月29日 外部ブログ記事
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「座頭市」の墓がある会津若松市千石町の「井上浄光寺」は、
「座頭市」の子孫、(あるいは弟子の一人?)「阿部寅吉」の
菩提寺。「阿部寅吉」は昭和20年に亡くなっている。

この時点まで「座頭市」の墓は無かったようだ。「阿部寅吉」の
墓も無く、遺骨は「浄光寺」に預けられたままになっていたという。
二人の墓が建てられたのは近年のようだ。

子母澤寛が 雑誌『小説と読物』に『ふところ手帖』で
『座頭市』を描いたのは、昭和23年。

どうやら、映画「勝新」で有名になった「座頭市」に便乗して、
「浄光寺」が、昭和60年頃、観光客誘致のために「座頭市の墓」を
作ったようだ。

たしかに、会津通の私だが、子供の頃「座頭市」の墓がある
という話は聞いたことが無かった。


もうひとつの「座頭市」の話が、猪苗代湖の南「福良」に伝わっている。

明治の世、会津では「大津絵流し」が大流行し、福良の座頭たちは、
若松城下街を門付けして回った。唄と三味線は「座頭市」の仕込みで
あったといわれている。

古老の語るところによると、幕末に関東の渡世者「座頭市」が
やってきて「福良」に逗留した。彼は、やくざに追われて
足利から会津に流れてきた。

福良宿につき、旅籠「和歌野屋」に数日逗留した。だが、近くで
賭場の開帳があり、つい生来の悪癖で有卦(うけ)に入り、
大儲けした。宿に帰るとおかみに筆墨紙を出させ、辞世の歌を
したため着物の襟に糸でぬいつけた。「目が見えないのに」と
おかみが聞くと、「俺ら子供の頃は目が見えた。手習いもし
雪月花の風情も知っている。実は関東から追手につけられてるんで、
いつ死んでもよい覚悟はできている」と答え、宿に迷惑が
かからぬようにと、茶代をはずみ 夜の明けぬうち出立した。

舟津港への間道を辿っていると、湖岸の絶壁七曲りで、追いはぎに
襲われて、懐中物を奪われ、湖に突き落とされた。通りかかりの
者に小舟で助けられ、一命はとりとめたが、足が不自由になり、
百姓手伝いなどしながら、弟子を取って按摩の術から、座頭芸
まで献身的に伝授して没した、といわれる。その弟子の一人が
「阿部寅吉」とのこと。

だいたい、「耳なし芳一」もそうだが、「一、市」は盲人の
俗名なのだ。私も琵琶のK氏に「虚無僧、一路です」と
名乗ったら「おめくらさんですか」と からかわれたことが
あった。

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