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平成の虚無僧一路の日記

幕末蝦夷地の会津藩領 

2012年12月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨年(2011)年11月、NHKでしたか、番組名を忘れたが「歴史の
スクープ」として、「幕末の慶応4年(1868)戊辰戦争のさなか、
会津・庄内ニ藩が領有する北海道をプロイセン(現ドイツ)に売り渡し、
軍事援助を得ようとしていたことが、ドイツ側の史料で明らかに
なった」と報道されました。

そのことを、このブログでも紹介しまたが、その記事について
「誤り」を指摘するコメントが寄せられました。

「北海道の東側は会津藩、西側は庄内藩(山形)領だった」と
書いてますが、当時は北海道ではな蝦夷地であり、網走と
留萌周辺のみであり、また、幕府の命によって行われた事業で、
正式には江戸幕府の領であります」と。

ま、ご指摘とおり、当時は「蝦夷地」です。現北海道は、海岸辺
から開拓されましたので、「東半分」「西半分」とは言っても、
海岸付近のみです。その点は、TV番組でも「北海道の東半分と
西半分、つまり全土をプロイセンに売り渡そうとしていた」と
センセーショナルに報道されていたことに、私も疑義を感じて
いました。


幕末、蝦夷地の会津藩領
を見ますと、東蝦夷地(現・北海道太平洋岸)の ネモロ場所のうち
「後の根室国標津郡、目梨郡。西蝦夷地(現・北海道オホーツク海岸)の
モンベツ場所(後の北見国紋別郡、常呂郡)、シャリ場所(後の北見国斜里郡)
とあり、会津藩が「京都守護職」を拝命により、その賄いの為に
加増された地ですから「会津藩領」です。ただし「網走郡」だけは
「預かり地」だったようです。

山国会津では、網走で獲れた「塩鮭」や「昆布」などの海産物が
新潟経由で運ばれて来、貴重な食料でした。


ネモロ場所 (根室県へ割譲)
後の根室国/標津郡以北
西蝦夷地 モンベツ場所 (根室県へ割譲)
後の北見国/紋別郡、常呂郡
シャリ場所 (根室県へ割譲)
後の北見国/斜里郡、

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