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平成の虚無僧一路の日記

新島襄「自責の杖」 

2012年11月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



新島襄を語るとき、いつも決まって登場するエピソードがあります。
〈自責の杖〉事件です。新島襄に関する著作を多く出版している
「福本武久」氏のサイト『新島襄と同志社』から転載させていただきます。

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明治13年(1880)の春のことであった。
当時、2年生は入学月のちがいから上級、下級の二組に別れていた。
両クラスとも少人数だったので、教師会が合併させようとしたのが
事件の発端だった。上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が
無届け欠席してしまった。無断欠席は明らかに校則違反であった。
5年生から校則違反の処分をせまられて、学校側は頭をかかえて
しまった。新島襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、
杖をもって学生の前に現われた。
「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。
校長である私は、その罪人を罰します」。襄はそう言うなり、
杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。杖は三片に折れてふっとんだ。

〈自責の杖〉伝説は、どこか芝居がかっているが、学校というものは、
あくまで学生中心に運営されなければならない……という新島襄の
原理・原則がよく現れている。

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と、多くのサイトでかくのごとく語られていますが、これも
“ちょっと待って”です。

「学校というものは、あくまで学生中心に運営されなければ
ならない」。これでは、60年、70年の安保闘争当時の状況と
同じですね。

この事件は、徳富蘇峰、蘆花兄弟が関与していました。
徳富猪一郎(後の蘇峰)は、熊本洋学校ですでにキリスト教に
目覚め、英語で聖書を読む域に達していましたが、当時は、
まだキリスト教の布教は禁止されており、熊本洋学校が
閉鎖されるに及び、同志社に転校します。しかし、同志社も
また京都府から“解散”の圧力を受けていました。

そもそも、同志社の運営費はアメリカのキリスト教布教団体
からの多額の援助で賄われており、新島襄や宣教師たちの
給料もアメリカから支給されていたのです。そのことに
外務省からもクレームが付けられていました。

徳富蘇峰ら熊本洋学校から転校した30名ほどの生徒は、
同志社の教育レベルの低さにあきれ、新島襄をバカにする
ほどでした。徳富蘇峰は、新島襄夫人の「八重」さんも
「鵺(ぬえ)のような女だ」とあざけっています。

5年生だった徳富蘇峰は、2年の上級組にいた弟等を
そそのかして、授業をボイコットをさせ、その上、
「ボイコットをした学生を処罰しないのか」と新島襄を
困らせたのです。

新島襄は、教授会からも学生からも信頼を失い、四面楚歌、
村八分の状況の中で、「自らを罰する」という行為に出た
のです。この行為にアメリカ人宣教師達は、あきれて、
腹を立て、この場から退出したとも言います。

新島襄の「自責の殴打」にも関わらず、この事件の黒幕、
徳富蘇峰は同志社を中退しています。

新島襄の「自らの手を杖で打つ」という行為は、キリストの
“贖罪(罪深い人間の罪の許しを、神に乞うために、十字架の
刑を甘んじて受けたこと)”を身をもって示したに他ならないと
私は思うのですが、これに宣教師達も“腹を立てた”という
ことが、当時の新島襄の不安定な立場を示しているようです。

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