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平成の虚無僧一路の日記

「山室」氏の先祖 

2012年11月14日 外部ブログ記事
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私の母方の姓は「山室」です。尺八は母の2人の兄
「山室重遠、信朗」叔父から手ほどきをうけました。

「横浜在住の山室」さんからコメントをいただきました。
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曾祖父の代まで、千葉県の松戸市の旧水戸街道沿いに
屋敷を構えており、江戸時代は、名主帯刀を許された
家柄であったと聞いています。

千葉県、特に松戸市の山室家の歴史情報をお持ち
でしたら教えてください。
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といいますので、過去に書いたものを再録させていただきます。

千葉県の成田空港の南西、松尾町に「山室城跡」があります。
また、山武郡芝山町飯櫃(いびつ)にある「飯櫃城」も山室氏の
居城でした。

「飯櫃城」は、天文元年(1532)山室氏が 山室城から移り、
天正18年(1890)保科正光によって攻め落されるまで
3代にわたる居城でした。

『総州山室譜伝記』によると、飯櫃城籠城時の山室一族は、
当主の山室常陸守光勝をはじめ、長男 山室宮内卿光慶、
二男右馬頭光重、三男大内蔵丞重昌、一門の山室弾正左衛門、
同太郎通勝、教勝、忠勝、山室伊勢守忠隆、山室肥前守長隆、
と10人もの名前が記録されています。

そして、合戦の様子をこと細かに記した後、当主の光勝は
自害したが、一族は逃げ延びたこと。長男 光慶と 妻お藤の方、
その子梅千代丸勝延、落城後に生まれた清兵衛蔵人、光勝の
二男光重、三男重昌は 民家に下り(武士を捨て)、菱田村
殿部田に居を構えて住んだとあります。


私の母方の始祖は「山室筑後守」といいました。下総の山室氏が
「山室常陸守、山室伊勢守、山室肥前守」と国名を冠している
ことからも、母方の先祖は、「下総山室」の一族ではなかった
かと思えます。

山室氏は、秀吉による小田原北条氏滅亡の後、徳川家康の
関東入封に際して、家康の命を受けた「保科正光」によって
攻められ、落城します。当主は自刃しましたが、一族は多く
逃げ延びています。

山室氏の後は、保科正光が10年にわたってこの地を治めます。

徳川家康は、北条方の各領主、甲斐の武田、茨城の佐竹、
千葉の山室氏などを駆逐しながらも、その残党は、召抱えたり、
土地を与えて帰農させたり、生計を維持させています。

そのことから、私の母方の先祖は、千葉の山室一族で、
保科正光に仕え、保科氏が関が原の後、本領の高遠に転封に
なった時、高遠に移り、さらに、保科正之の代に会津に
移ったものと考えられます。

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