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平成の虚無僧一路の日記

春姫の父は虚無僧を追っ払った 

2012年11月08日 外部ブログ記事
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初代尾張藩主・徳川義直に嫁いだ「春姫」は、
紀州藩初代藩主「浅野幸長」の娘です。

慶長8年(1603年)和歌山城で誕生。元和元年
(1615年)12歳で輿入れ。子供が生まれないまま、
寛永14年(1637年)に35歳で亡くなり、大須の
萬松寺に葬られました。

2代藩主は、義直の側室の子「光友」です。

春姫の嫁入りが名古屋の豪華な結婚式のルーツと
されており、毎年4月に、「春姫道中」として、
嫁入りを再現したイベントが行われています。

ところで、春姫の父、紀州城主「浅野長政」は、
秀吉によって破壊された紀州由良の興国寺を再建
しているのです。

その時、「廃墟となっていた興国寺には たくさんの
虚無僧が住み着いていて、追い払った」という
記録があるようです。

その虚無僧たちは、以前から興国寺と関係があったのか、
それとも、廃墟の跡に住み着いたのかが、問題になり
ます。

江戸中期以降、京都明暗寺は、紀州「興国寺」と
本寺−末寺の関係を結びます。そして、興国寺の
開山「法燈国師覚心」が唐から「普化宗」を学んで
尺八とともに伝えたという伝説を唱えます。

明暗寺が興国寺を本山に指名したのには、それなりの
伝承があったのか、全くの事実無根なのかが議論に
なるところです。

なお、浅野幸長は、春姫が尾張に嫁いだ3年後の
慶長18年(1613年)38歳で亡くなり、子供が無かった
ため、弟の長晟が家督を相続し、翌元和5年(1619年)
安芸国広島藩に転封となった。分家「赤穂藩の
浅野長矩」の祖でもある。

浅野幸長の後、紀州の殿様となるのが、家康の十男
徳川頼宣である。頼宣は、2歳で水戸20万石に封じられ、
慶長14(1609)年には駿河・遠江50万石に。更に、
元和5年(1619年)紀州に転封となり、ここに紀州
徳川家が誕生する。
 

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