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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧寺乙黒明暗寺と浜松普大寺の抗争 

2012年11月08日 外部ブログ記事
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明暗寺といえば京都ですが、山梨県中央市乙黒にも明暗寺がありました。

江戸時代の末、天保15年(1844)、岐阜の芥見村で、乙黒明暗寺と
浜松普大寺の虚無僧とで、留場(とめば)をめぐっての縄張り争いが
ありました。

留場と云うのは、虚無僧の横暴に手を焼いた村々が、虚無僧寺に
毎年、米や金品を差し出すので、虚無僧が来ないようにしてくれと
証文を差し出した地区です。

この留場が虚無僧寺の収入源になっていたので、虚無僧は托鉢など
せず、飲む打つ買うの放蕩三昧、堕落腐敗していったのです。

「侍しか虚無僧になれない」と云いながら、実態は、百姓、町人、
船頭、無宿人にまで免状を出し、彼等「宗縁(虚無僧寺の関係者)」に
よって留場が管理されていました。

そこで名古屋、岐阜には虚無僧寺は無かったのですが、甲府の明暗寺の
宗縁と浜松普大寺の虚無僧が、岐阜芥見村の留場をめぐって争い、
死者まで出ました。

当然、幕府の取調べとなり、その結果、虚無僧寺には無宿人が
紛れ込んでいたり、売女まで囲っていることが露見し、虚無僧の
取り締りが強化されるようになります。

そして明治になって、明治政府も普化宗を禁止、尺八吹いて門付け
することも禁止されたのです。

現代の虚無僧愛好者は、いたって大真面目に普化の崇高な精神を
学ぼうとする人ばかりですが、一般には「怖い」というイメージが
付きまとっているようです。それは、江戸時代、さんざん悪さをした
記憶が潜在的にあるためでしょうか。

ま、「善と悪」双方を併せ持つ象徴的存在ではあります。

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