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平成の虚無僧一路の日記

甲府、武川牧原 

2012年10月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



さてさて、静岡から富士山の西側、身延を通って甲州までの
旅もまた ワクワクでした。江戸時代、甲州乙黒(現・山梨県
中央市下河東)には、虚無僧寺の「明暗寺」がありました。
「明暗寺」というのは、京都と越後と甲斐の三か所にあった
のです。

その「明暗寺」のことは別に記すとして、「先祖探しの旅」、
今回は「武川牧原」です。

国道20号線に「牧原」という交差点があります。その辺り
「北杜市武川町牧原」が当家の発祥地ではないかと思って

武田一族の中に「牧原姓」がありました。武川衆の一員として、
信玄に従って三河に進出。信玄が野田城で鉄砲玉に当たり、
蓬莱寺で3ヵ月の療養の末、病死すると、その跡を継いだ
勝頼は長篠の合戦で大敗します。その後、武川衆は武田を
見限って徳川に帰属しました。

当家の先祖も、三河松平郷に一時、潜んだのでしょうか。
「くらがり渓谷」の手前に「牧原」のバス停がありました。

その後、「桜井松平家の忠頼」に仕官し、忠頼が若死にして
お家断絶すると、浜松の水野重仲に仕官、そして紀州新宮へ
移封。さらに会津保科松平家と転籍し、命脈を保ってきました。

会津藩ですので、幕末は「蝦夷・樺太、網走、房総、三浦の
警備」、「京都守護職」、そして「鳥羽伏見」から、日光、
尾瀬、白河に転戦、函館戦争にも加わり、下北半島の斗南
(現むつ市)移住。さらには「西南戦争」で、大分、熊本と
各地に足跡を留めているのです。このうち「利尻・礼文・
樺太」だけがまだ行っていません。

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